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【○】スピッツの潮騒ちゃん

ことわざ 参加しロン!

【バイト】障害者が7月と11月の誕生石を大声で言いながら練り歩く等


2017/8/19 土 感情がなくて悲しい

 笑ったり怒ったり、というのはします。だから感情はあるんです。けれど自分の感情を「蘇らせる」には、結構な努力が必要です。めったにしません。思い出せる限り、ここ5年で2回ですね。
 Jo氏にバカにされてあと「僕は怒ったのか? 彼が馬鹿にしたのは僕にとって大切なものだったのか?」と自問した時と、Enさんと最後の会話をしたあとに「共有した時間の中になにがあったのか」と考えた時、くらいですね、思い付くのは。
 萩尾望都の「アメリカン・パイ」を読んだ時と、ミリオンアーサーの「破壊こそが生きがい」を聴いた時に、思いがけず泣いて、なぜ泣いたのか考えたことはあるんですけど、これは自分の心ではなくその作品に対して思い巡らせたので、自分の心を掬うのとは、ちょっと違います。

 けれど、どうでしょう。自分の心に関しても、何かの作品を考察するように、自分の心から分かれてはじめて見えるよな気がします。
 僕はいつも感情を「顧み」ます。現在から過去へ。一旦時間を置いて、改めて触れる。その手順では、自分の心から切り離されたあとでしか、自分の心を感じられないように思えます。というか、自分の心でなくなって初めて感情が分かる、というか。今の自分から過去の自分へ。今の自分に「残留」するキャッシュのような感じ。内部ストレージは全部不明なシステムで、「キャッシュを削除する」が出来る澱でしかないような感じ。いつの間にか集められて、「ゴミ箱を空にする」前にちょっと見ているかのような感じ。
 そのようにしか、捉えることが出来ません。原因はたぶん自分の幼児性でしょう。自他がちゃんと分けられないのは、自分がなにかよく分かってないから、みたいな。自意識と自己評価が一致してないから、ぶれがあって、自分が揺らいでる。自分が確立してないから、他者の領域に足を突っ込んだり、自分の領域で手を引っ込めたりしてる。ような感じ。
 そのようにしか捉えることが出来ません。今は。他の、「ちゃんとした頭のありかた」とか「やわらかい育みのありかた」とか、そういうものがあるのでしょうし、いずれは自分の頭のなかもどのようにか収まる、といいな、と。死ぬまでどうにもならず、というのもありそうですが。


2017/8/15 火 水(鏡)

 主にバー的な場所で。人が1対1で話すと鏡のように、何人もで話すと水の混じりのように思える。濁りがなければ、鏡は無限にお互いを映し、その奥深さは、決して一枚の鏡には見えない図を作る。ここには、筋はあっても、流れはない。そもそも時間さえないよな気がする。(モルモン者は、向かい合わせの大きな鏡の間で結婚を誓うらしい。「死んでも永久に一緒」を示すビジュアルが、無限にいる二人の姿だとかなんとか)
 複数の場合は、もうこれは全然勝手が違ってて。目は2つあるけれど、見るのは一方向だから、自然、話者の目が向かない場所がある。左右の目を別々に向ける技術があれば別だけど、三方向に人がいれば、同じく目の届かない位置がある。見ない場所には目もくれない人と、平等のように見る人がいる。見えない場所からちゃちゃを入れれば、本当に「目に入ってなかった」という人もいるし、まるでこちらに向けて話していたかのように呼応する人もいる。
 ○○さんが××さんに話して、××さんが話を聞いていなさげな時に、こちらを向いて話しを続ける人は「話をしたい人」で、少し黙る人は「××さんに話をしたい人」あるいは「この話を聞いてもらいたい人」かと思う。ちゃちゃを入れて、「こっちも一応話を聞いていますよ」と知らせることもある。それをどう判断するかは相手次第。
 目の向きや、声の向き(大きさ、トーン)、動き、話題も微笑みも、いつでも作用しあってる。譜面に書き起こせない要素だから、指揮者は大変だろう。


2017/8/5 土 サイクルの感覚

 二泊三日の日光無目的自転車旅行(阿房自転車)のときに、迷ってガタガタ農道をギコギコ自転車漕いでた。だだっ広い空と静かな住宅街があるけれど海はない。埼玉には道と家と農地(みち・うち・のうち)しかない。ペダルをとめて、惰性でほんの少し進んで、自転車は止まってしまい、一周だけ回すと、ほんっっっっっっの少しだけ進んで、またギコギコ漕ぎ出したときに、ふっと、「ああ、自分が漕いでいるから進んでいるのだなあ」と詠嘆したことを、ふっと思い出した。
 ガタガタ農地だから、漕いでもあまり進まない。迷っているから、行路に自信がなく、足の力も弱まっていたのかもしれない。かのようなことを詠嘆させるにおあつらえ向きに思えるシチュやんけ。止まって、止まり続けていてもなんにもならないことはよく分かっているから、目的地へ向かうしかない。目的地と言っても、家から3時間くらいの、迷わなければ1時間くらいで行ける場所で、まだ引き返せるかなとも思った。思ったけれど今はよく分からない凸凹道だから「引き返すにしても、少なくとも舗装路へ」と思って漕いだ。舗装路に出てから、結局北に漕いだ。たいらな道は抵抗も少なく、スムースに漕ぎながら、「勝手に進んでいるようで、自分で漕いでるんだよなあ」と思った。あたりまえだ。
 車がびゅんびゅん通り過ぎ、向かいから走ってくる人はいるが、自分を追い抜くジョギング・マンはいない。それは不思議ではない。

 自転車に乗っていると、これはあまり「自転車的」でないと思うのだけど、「電車」に乗っているような感じがする、自分の力で動いていない感じ。自分自身が自転車の一部になって、すすいーっと行く感じ。ママチャリだからけっこうどっしり腰をおろしているだろうけど。
 僕には実は、バイクの方が「自分で動かしている、自分で選んでいる」という感覚がある。車だと、あまりない。通行手段として使われているのはどれも同じだから、なぜだか分からない。「風になって」と言えるほど、速度は出していないつもりだけど。

 平坦な道であれば自転車は漕ぎはじめるときが一番力を使うけれど、進んでいるときに漕ぐのは、すすーっと行く。「スムースに"行く"感覚」は次に"来る"、そういうことに慣れる。


2017/7/30 日 金字塔の聞き違え

 バイオフィードバックの話は終わり。
 中村一義の歌詞を読んでないので、初めて見てみようと思います。で、あの人、何言っているかわからないので100個くらい聞き違えてそう(笑)。
 まずは1stの金字塔から。括弧内が聞き間違いの歌詞です。

『犬と猫』
町を背に(待ち合わせに)
同情で群れなして否で通す(同情で乗り出して来てどうする)
奴は言う こう あぁ ていうのう もう けっこう!(奴は行こう 宛名の??ご結婚)
死ぬとどう?(真骨頂)
得た知恵(いざ自演で)
裂いた部屋(サイドヘアー)
伝統ノー(程度の)
ボス落とせ(並ばせたぜ)
同じようなもんかねぇ(同じようなもん買って)

『街の灯』
もうすぐ(まっすぐ)
最近、偶然に(土手に)or(のテレビ)
終身刑(終止形)
もろい(物言い)
同じもの、欲しいくせに(同じ、物欲しいくせに)聞き違え?
上空(ジョーク)
群れに(並びが)
そいつを脅す(サイズを落とす)

『天才とは』
世紀も末なのに(駅も過ぎたのに)
ウッソー!?イヤ?(そういや)

『魔法を信じ続けるかい?』
もう、ずいぶん古い魔法を(もうすぐ古い魔法を)
こっから出んだ(分かってんだ)
熱上げたくらい(奴らが企む)
同情の群れ(喉の震え)
友人(意地)
うん、そんなもんさ(嘘なもんさ)
充電していただけ(自分知っていただけ)
僕、大好き(物体好き)
いいバカ連れ(今訪ね)
音(外)
心の暇で(心の日まで)
自分自身を支える(自分自身の刺さる)

『ここにいる』
まだ大きな(笑おうおっきな)
みんなを待ってる(みんな想ってる)
ただの平々凡々な(ただのへぇもうおもんな)
カッコ(過去)
トンネルを抜けると、今日は(トンネルを抜ける東京は)
平々坦々(大胆)

『いっせーのせっ!』
何かを見通していたんだ(なにかを言おうとしたんだ)
こつこつ型で(口数がダークネス)
たかったから(馬鹿だから)

『謎』
病んだ(やった)
バス(バースディ)
人のことの考えず……られず…進む(人の言葉考えず、とりあえず、進む)
言語(言動)
ゴールを旋回し、大手振り(どれも世界史を手に)
出発地点へ戻る(出発しては戻る)

『いつか』
そんなもんは(そのまま)

『永遠なるもの』
道…… 平行線(ビーチのパパッパパパッパ your self)
茶化(着火)
予報によりゃ言う奴が(両方にいるような奴が)
そうか…落ちるそうだ(空が落ちるそうだ)
あなたが言う…「なんかに飼われていた」(あなたがゆるやかに飼われていた)
いい。まだ(未だ)
そうだ。スヌーピー大好きなやつが、重タール漬けガイでも(騒がしく??日々が大好きなやつが??住宅付けが用意??)
幼稚な気持ち(余地なき気持ち)


 ……あの、別にウケ狙いではないので。そこは誤解なきよう。「状況がサイドヘアーで」はちょっとおかしいなって思いながら聞いてますからね? たぶんカラオケとかでこんな風に歌うと逆になにか掴めるかもしれませんよ?


 龍頭巻き上げて(保留)
 先の先のリューズ巻き上げて並べたジンクスを無意識に繰り返し青い水飲み干しているのはトクマルシューゴですが、それは置いといて。
 保留。留保。このふたつは意味が微妙に違ってて、Yahoo知恵袋でも、僕の持っていたニュアンスとおんなしでした。保留はとどめること、留保はとどめた状態を保つこととのこと。どちらでもかまわないのですが、ゴロがよいので保留を用います。留保は白い馬でしょう。
 さて、保留。なにかを保留することは、なにかの解決を先延ばしするとも言えますし、なにかの答えを探し続けることとも言えますし、なにかの関係をゆるやかにつなぐこととも言えます。なにを保留するのでしょうかと言ったら、これまでの幾つかの話の続きで、「意識」についてです。
 数直線の左側と右側に点があって、そのちょうど中間くらいにも点があって、真ん中の点に、より近い点はどっち? という問いがあったとします。それをものさしで計るあるいは目盛りを数えるあるいは指の太さで計ることで、答えが分かるでしょう。
 しかし、平面的なものさしでなく、私たちは三次元人ですから、奥行きがあり、その点にも奥行きがあったらどうしましょう。左側と中央の点は手前に、右側の点がはるか遠くにあり、小さい点と思っていたものが星ほども遠く大きいものであれば、答えも、景色も変わります。そして、最初に出された、より近い点はどれ? という問いは木っ端微塵に砕けてしまいます。「右遠すぎやろ」と。しかし実は、左側の点は凄く手前にあって、めっちゃくっちゃちっちゃかったらどうしましょう。真ん中の点も、実は生きていて、5分もするところころと転がるとしたら、もう計るどころの話ではありません。
 という風に、まあ、対象や状況が、時間によって変わる。見えるものが変わる。正体が分かる。そのような観測ができるのは、多角な見方をすること、時間を置いたことによってです。ひとつのものさしとひとつの見方では、見る対象の正体を、取り違えることがありがちです。
 もし、自分の心を計るものがひとつのものさし、ひとつのザルでしかなかったのなら、心は増減するだけのものになってしまいます。さまざまな網目と、色合いと、温度とを、計れるようにしたほうがよいでしょう。
 けれど濾す前の混沌のまま掬い上げるのが、真に「心そのものに触れる」と言えるのでしょう。清酒だけが日本酒ではありませんから。


 なんでも順位付けマン(象限図)
 ものごとに順位つけること、ありますか? 僕はよくあります。このアルバムでこの曲が一番好き。このバンドでこのアルバムが一番好き。このレーベルでこのバンドが好き。この業界でこのレーベルが一番好き。この社会でこの業界が一番好き。この科目で社会が一番好き……などなど、順位付けをしてしまうわけです。二位三位四位までわざわざ明確なランキングは付けませんが、自分の中でなんらかの優劣をつけているわけです。ある部分に加点つけて、ある部分に減点つけて。そういうことを何の気なしにやって、それで総合的な「良さ度」を較べて、これが一番好きだって○○だものと言っているわけです。
 もちろん、そのように意識しているわけではありませんが、「意識の外」でカンジョウをカンジョウしているからこそ、一番だなんて言うのでしょうね。そう言い慣れてるから、ついそう言っちゃうのだとしても。女子高生の「サイテ~」みたいに(今の女子高生、まだ言ってるの?)。
  そのような順位、あるいは「良さ度」は、見ての通り、数字です。一位二位三位、減点加点。そのように計っていくのなら、自分の触れたものすべてが、マイナス無限からプラス無限までのひとつの数直線の上に置けますよね。並べて較べるのなら、奥行きは失われます。その一直線のものさしだけを、自分の価値観にしてしまえば、自分の意識は、そのものさしの指すとおりになり、まるで、ものさしだけが生きているようです。
 「自分の意見を否定されると瞬間湯沸かし器になる人」というのは、自分の意見≒価値観≒ものさしが否定されたと思っている、ものさしに支配された人に思えます。先入観強めですが、そのように思えます。人間と話している気になりません。死者ではありませんが、生きているとも言いかねます。
  まー、僕も、半ば死んだような人間ですが、なんとか生きてる感あるのは(ある?)、順位をつけるものさしが一直線のものさしでなく、縦横ある象限図だったからかな? と思います。
 ごぞんじ象限図。中3か高1の数学で、習いませんでしたか? 十字かいて、真ん中が原点で、右上が(+,+)左上が(-,+)左下が(-,-)右下が(+,-)のアレです。
 これは単純に言えば、ふたつのものさしをふたつにしただけです。縦と横に。でもそうすることで、ひとつのものさしじゃ見落とすものを、見逃さないんですよ。
 たとえば……というのも難しいですね。
 ものさしが増えただけなので、言ってしまえば、ひとつのものさしでも、両面を使えば出来るんですよ。たとえば、表はcmを計って、裏はgを計るようなものさし。あるいは、一度目はmを計って二度目にはkalを計るようなものさしを。
 ただそれでも、ふたつの単位で計ったときに、どのような「釣り合い」になるか、2つの数字だけでは、全体像としての位置が現れないんですよね。
 あ、ものさしの悪しき点は、それが長さを計るものだからですね。長さ以外のイメージが出来ないんですよ。棒グラフ的な。
 その点象限図だと、目標は4つのエリアのどれかに置かれ、座標に線を引こうとすれば、上からであったり下からであったり、曲線であったり円であったり、微分して面積を求めたり、色々あります。単位がないから、どのような単位で計り直すこともできます。
 イメージしやすい、気がしますね。人間、ひとつ下の次元までならよく認識できますから、直線で考えるより、平面で考える方が自然にも思えてきますね。
 立方体で考えれば切り分けることもできるのでしょうが、六角錐がどんな形をしているのかもイマイチつかめません。僕には。
 もちろん、象限図に書くことは自分の頭の中のデフォルメにすぎないので、デフォルメのものでなく、生のものを生のまま触れる人の方が自然なのでしょう。
 エミネムさんの言う「外へ出ろ 技術なんて後からでもついてくる 自転車に乗るみたいにな 世界には素晴らしいものがたくさんあるんだ 絵だけ見て描いてかちゃ劣化コピーになっちまうぜ」は本当に正鵠を得た言葉と思います。絵だけの話でなくもっと広いトコで。

 象限図も結局は数値化・順位付けですので、数値化・順位付けをする「副作用」を受けているに違いありません。けれども、(2,4)(-1,7)を較べて、どちらがより勝っているかと思った時に、「ある軸ではAが勝りある軸ではBが勝る」としか言えず、「結果として、結果はそうとしかいえない」「違う軸で比べればCが勝りうる」という余地を残す、暫定的な結果しか確定しないので、ものさしが凝り固まりにくい、そう思います。「原点」という、鬼みたいな言霊もつ点も付随しますしね。
 人間、フィルターを持ちがちだけれども、象限図なら濁りにくいよーと言いたいのです。少なくとも、背骨みたいなものさしよりは。


 ANOTHER GAME step 1(想像力)
 以下、p-model『ANOTHER GAME』から「ANOTHER GAME step 1」

ANOTHER GAME step 1
楽な姿勢で座り目を閉じて下さい。
いまから私が三つ数えるとあなたはリラックスします。
1……あなたはリラックスしていきます
2……深くリラックスしていきます
3……あなたはリラックスしています
そのままで、出来るだけリアルに、あなたの環境を思い浮かべて下さい。
イメージでその空間を広げてゆき、何千キロも離れたところにいるであろう、一人の男を思い浮かべて下さい。
彼は平和な家庭を持ち、家族を愛しています。仮にその愛が世界を救えるのだとしても、世界は彼から職を奪うことは出来ません。兵器工場の働き口をです。
意識を集中して、世界と彼に関するこの礼儀正しい「ループ」をあなたの脳活動の中から探し出し、いついかなる場合にも、それを思い出せるよう、あなた自身のキーワードを作って下さい。
もう一度男を思い浮かべて下さい。今度は別な男です。
彼は有能な科学者であり、然るべき理由によって、然るべき自体に備え、人類を宇宙空間に移住させるためのプロジェクトを持っています。しかしあなたは、この人類地球脱出計画の理由と、人類地球脱出計画の技術がイコールであることを知ることが出来ます。
意識を集中してこのイコールを脳活動の中から探し出し、いついかなる場合にもそれを思い出せるよう、あなた自身のキーワードを作って下さい。
以上の事柄は、ほんの一例にすぎません。あなたはいまやイメージを広げ、あなたの日常の中から多くの類似した例を見つけることが出来ます。
現実の中で起こる、それらの脳活動に共通した条件を感じ取ることができ、もしもそれが奇妙なものに見えるのならば、その感覚と、その感覚を得ている現在のあなたの肉体的・精神的な状態を、いついかなる場合にも思い出せるよう、あなた自身のキーワードを作って下さい。
その状態から見る世界観と、その状態から得られるあらゆるアイディアに期待します。
さあ、もっとリラックスして下さい。もっと深くリラックスして下さい。
それでは音楽をお楽しみ下さい。

 はい。
 いやー、平沢進は好きなのですが歌詞はまともに理解できない(理解しようとも思えない)ので、このような語りや三行Blogで目にすると、やっぱり本当に深イイ人なんだなという念が強まります。僕が特に印象深いのは、親愛を示す他者に貰ったおはぎは悪いものが入ってるかもと思ってしまったことを自省する話です。
 さて、バイオフィードバック。なにが「見過ごし意識」なのでしょうかと言えば、それは「脳活動」の部分でしょう。脳活動の中から探し出し、というのは、つまり外へ出ることをせずとも、なにか思い当たることがあるでしょう? と問うてるわけです。これは記憶……の領域なのでしょうか。脳自体に詳しくないので分かりませんが。
 普段には見過ごされているものも、この語りを聞いて「ある男」という2つの補助線を引けば、それに類するものが思い浮かぶわけです。
 その補助線を引くことが出来なければ、永遠に日の目を見ない恐れもあります。そして、新しい定義からみる新しい世界観も、新しいアイディアもありません。逆に言えば、補助線を引くことができるのなら、なにか新しいものを手にできるのではないでしょうか。
 新しさだけではなく、たとえば美しさも。
 ある素晴らしいカメラマンに対して、「この人の目で世界を見てみたい」という人は、視力とか経済力とかPhotoshopの加工力とか、そんな話をしているのではなく、なにが美しいか分かっている人でなければどこにでも現れうるであろう美しいことを見逃してしまうだろう、このカメラマンは美をよく知っているけれど自分はあまり知らないのだろう、わたしはなにかを見落として生きてきたのでなかろうかと危惧しているのではないでしょうか。
 美しさだけではなく、たとえば残酷さも。
 ひどい例を出すと、中背の黄色人種しか人間と思っていない者が『ハゲワシと少年』の写真を見た時、シャケが切り身で泳いでいるのと同じ誤解をしてしまうのではないでしょうか。「へえ、これが人間? どっちの黒いのが?」みたいな。

 記憶にないことはなかったこととおんなじ……というのはs e lainにもありましたね。戦争の記録を後世に残そうとする人は、風化の先にある「無」をおそれているのでしょう。死語も、死語と言われている間は生きていて、言われなくなって初めて死ぬ……。人が死ぬのは全ての人の記憶から消え去った時とも言いますよね。
 カーペットに石を放ってもなにも起きませんが、水面に放るのならば波紋が生まれます。あるいは、カーペットも水面も、そこに何らかの運動が加わらなければ、決して波打つことなく、波紋を見ることも出来ません。
 もしキッカケがひとつもなければ、つまり死体のようになにも感じなければ、あらゆることは見過ごされてしまうのではないでしょうか。言葉がなければ思考もできない、という話のように。
 自分の頭のなかで一度の波紋を起こさない場所を作るのは、自分の世界あるいは可能性を狭めているように思えます。
 よりよい可能性があるには、波紋をなんども起こす、なんども考え続けることが大事で、考えることには、なにかのキッカケが必要なのではないのでしょうか。それが自分の内からなのか、他人からのものなのかはともかく、なにか新しいことをキッカケとして。 


 バイオフィードバックその2(自殺防止スイッチ)

 喧嘩稼業とEXILEのハイ&ロウの両方が好きな人間は才能ある人という推論があるのですが、今のところ破られていません。といってもサンプルは2人だけですが(斜線堂さんはBIGになるよ)。
 皿屋敷さんも大好きな喧嘩稼業に、梶原というキャラクタがいます。なかなかの噛ませ役で現在進行中のトーナメントでも早々に退場してしまいました。しかし次回の世界編でも登場しそうなので嬉しい。
 この漫画は格闘漫画なので、殴ったり殴られたりします。殴られると痛いです。殴られると意識がふっとんだりします。意識がふっとべば隙だらけなのでボコボコにされ負け、死んでしまいます。これではいけませんね。梶原さんは自分の意識が曖昧になったとき、「オン・マリシ・エイ・ソワカ」と、真言を唱えるよう訓練してます。意識が曖昧になっていると、身体が意識に訴えるわけですね。
 曖昧な意識(俺は意識清明だ)→口→耳→意識(あっ俺は意識曖昧だ)
 これはよくある話で、悩み事が多いとため息をつく、というのも同じでしょう。退屈なときにあくびをするとか。これは先天性か後天性かは分かりませんが、そのような常「識」があるのはたしかでしょう。
 僕にもひとつ憶えがあって、それは「自殺をするものは視野が狭い」という森博嗣の言葉です。実際はこんな断定的な文章ではありません。前後の文も忘れてしまいました。けれど「そうなのだろう」と、採用しています。
 採用とは「僕もそのように捉えている。考えるまでもなく、そういうものだと思っている」ということです。もちろん「100%」「絶対に」とはいいません。水は100度で沸騰するくらいのニュアンスです。気圧がどうとか、実際は0.0なん度の誤差があるだとか、そういう厳密さを欠いたまま、「そういうものだろう」と思っています。(さらに厳密さを欠いた例では、昔は重力が弱く人は巨人であったと採用しています)
 さて。自殺をするものは視野が狭いという性質を認めるのなら、つまり、自殺をしたくなったときは視野が狭まっていると捉えることが出来ますよね。だから僕は自殺したくなったときに、「視野が狭まっている!」と、武家諸ハッとすることが多くありました。おかげで直接的で決断的な行動を取らずにいられました。
 けれども、「視野が広ければ自殺しない」という対偶を持ち出して、「自殺しない限り視野は広い」と誤解して、視野が広くなったと思い込んだまま、ただ単に「視野狭く生きている人」になっているような気もするのですが……。(要反省。ただし自殺行為はNO)
 広い視野で、自殺したくなるような、目に余る状況を退けていきたいものです(願望)。

 もちろん、森博嗣の言葉がなくても自殺はしなかったかもしれませんが、それは、もし○○に出会わなかったら連続殺人鬼になっていただろうと言うのと同じです。○○に出会えてよかったね、というだけの話です。○○に出会えてよかった人に、もし○○と出会えなかったと仮定を持ち出したとき、ひとつ確実なのは、現状の「よかった」がひとつ無くなっていることだけでしょう。もしくは、出会った○○と出会わなかったことだけです。

 またひとつ思いついてしまいました。
 文章を書きながら「たとえば、横道があるとき、まっすぐか曲がるか選択できるあみだくじがあるか?」と書こうとして、想像すると、「いやこれ普通にありそうだな」と思い、書きませんでした。
 経路を選択できるあみだくじ。
  たとえば、普通にあみだくじやったら真下につくあみだくじがあって、それの経路が選択できるのなら、そのあみだくじの引き方によって、なにがしかの精神判断ができるのかもしれない。左脳が強いから終点が右に寄りがちとか、右に曲がったら左に曲がりたがるから前世はゴキブリだとか。こーいうのって、チャンスレベル(偶然以上)のなにかがあるだろうから、面白い。それともないのかな?
 たとえば、「最初選択した場所から普通にたどる。終点には数字が書いてある。あらためて選択した場所から、その数の分だけ曲がって同じ終点に到着しなければならない。」みたいなゲームができませんかね。
 タイムアタック制でしょうか。「くじの、より下側で曲がり数を0にすると勝ち」とか? あるいは「かつてのルートを通るときは曲がる数を消費しない」と追加ルールして「違う終点に到着しなければならない」だと難しそうです(後半、どのルートも通った形跡があるので曲がり数を消費しにくい)。「二度目に通ると通った形跡が消える」とすれば「すべての終点についたとき、より形跡が多い方が勝利」としてもいいかもしれません(でも紙とペンじゃ難しいかな。アプリ的なマシーンならなんとか)。あ、偶数回目はペンでなく消しゴムで引いて、消えた線上は自動的に真下に落ちることにして、なんらかのゲーム性がまたできそう。
 それで、このあみだくじ的なもの。的なもの。あみだくじから離れて、あみだくじ的にすること。あみだくじを土台にした別の「まだないであろうもの」。質は別にしてね、ある点から跳躍したってこと。これも遠心的かな?


 バイオフィードバックその1(バイオフィードバックとはなんぞや)
 バイオフィードバックという言葉を聞いたのは何度かありますがその言葉を調べたのは平沢進のANOTHER GAME step 1を聞いてからです。
 すっごい「意味深」な曲……というか語りなのでどのような反応が為されているか調べていたら、感想は「深イイ」くらいしかありません。がっくし。何かのサイトでこの曲は「バイオフィードバックを促す語り」というよーな説明がなされていました。バイオフィードバックとはなんぞや。そこで初めて検索してみたところ、日本バイオフィードバック学会というものがあるようです。日本バイオフィードバック学会認定バイオフィードバック技能士というのもいるようです(?)
 人間、意識ないところで色々なことが起きており、この「意識の外」にあるものを「意識」することで、色々なことが起こる。これ自体はフィードバックでしょう。トライ&エラーみたいなね。
 「意識の外」にあるものが、自分自身に関する情報の場合に、バイオの接頭語がつくんでしょう。
 この「意識の外」。体温とか感覚とか内臓脂肪とか、ふだん意識しないもの・出来ないものは、自分の体のみとはいえたくさんありそうですが、「意識の外」で一番意識に近いものは「無意識」なのでしょう。
 なのでしょうか?
 無意識よりも意識に近く、かつ意識できないものがあるように思えます。それは、認識できるけれどそれについて意識を割かないものでしょう。これを仮に「見過ごし意識」と呼びます。たとえば目を開けば視界一杯にさまざまなものが映りますが、意識できるのは1割程度だと言われてます。視覚情報は膨大なので、全部を意識すると、脳みそがてんてこ舞うからとのこと。
 机の上から少しはみ出た空のコップがあったとして、視界には映るのにそのコップ自体に焦点を合わせないのが「見過ごし意識」、コップが空だからと内心計算して注意するまでもないと判断しているなにものかが「無意識」のように思えます。同じ「見えるのに見えない」だったとしても、過程が違うんですね。
 空のコップでたとえましたけど、バイオ=自分の体の中で見過ごしているものってなんでしょう?
 これは実際にある話なのですが、大きな事故により怪我をした者が、それを見たものの言葉で本当に助からないと思い、出血がひどくなり死んでしまう、もし悲観的な言葉は助かるものも殺してしまう、励ましの言葉を是非という話がありました。怪我人をみて「唾つけりゃ治る傷やんけ」と言うか「いまにも"死んだあとに行く三つの栄えのうち最低ランクの星の栄えでも地球にはないくらいの栄光があるらしいし上位の栄えから宣教師が来るらしいからそこで改宗すればより上の栄えに行けるし裁かれる前の待合室的なところでも改宗チャンスあるらしいよ!」と言うかの違いで、生きるか死ぬか、すっかり変わってしまうんですね。気をつけましょう。
 ただこれは、他人の声の話。自分自身だけで完結するバイオフィードバックとはちょっと違うかな?(自分の目で自分の傷口を覗いた場合を除く)
 自分の中で完結して、それ自体が外へ飛び出すことがないもの。心です。意識が外のなにかを見逃していると同時に、心それ自体も見逃されているのです。
 ここでいう心は、意識だけでなく感情や意思や理解を含みます。脳というと肉体的すぎるきらいがあるし、もともと脳自体は意識できませんしね。
 意識も若干脳っぽい感じがしますね。理解は心っぽいけれど、感情や意思に比べるとほんの少し脳よりかな? もう少し語彙があれば違う言葉でニュアンスを確かめることができるのだけど……。
 と。はい。うわっ。あっバイオフィードバックしてしまった。「意識」「感情」「意思」「理解」という言葉が脳的か心的かなんて今まで考えたことありません。それを今考えました。自分が文章を書く内に。
 教わるより教える方が身につくとか、相槌を打つだけで相手の悩みが解決するとかも、なにかしら、そのような力が働いている気がしますね。
 あー、たぶんこういうのが「遠心的」なんでしょう。あっバイオフィードバックしてしまった(今年の流行語)。ちょ、バイオフィードバックとか言わないでくださいよ~(三年くらい前の流行語)。

 続きは後日。原文の一段がここまで伸びたのは、まあ、つまり、これまで不親切野郎でしたってことですね。


2017/7/28 金 世界に親切

 世界に親切を忘れず先週書いたものを読みやすく書きます。書いているものがいろいろとっちらかってて、これでいいやろと思ってましたがまあ不親切極まる次第で御座いますので。


2017/7/22 土 びゃーおふぃーどばっく

 バイオフィードバックってののwikipediaを読み込んだ(PCが)。ざっくりいうと自分の体温とか血圧とか脳波とか、そういうの数値化したり視覚化したりして、本人に認識させること。卑近な例(言いたいだけ)だと、心拍数ずいぶん高いから自分が緊張していることに気付く、みたいな。気づかないことや、感じてはいるけれど意識できない・見過ごしていることを、意識させる。現代では脈拍数計るのは自分の意思によってだから「無意識」感低いけど、身体どっか機械埋め込んで、グラス型モニターに自分の身体情報が提示されるようになれば、バイオフィードバック感増す。普段通りツイートしたら反響大で「あっこういう感じのツイートが受けるんだな」と気付く……みたいな。これは単なるフィードバックか。
 知悉っぽいのに意外の代表が、自分の体なんだろう。
 で。
 喧嘩稼業の梶原というキャラクタは意識朦朧になると、真言を発するように自分を「設定」している。いざ戦闘中にしこたま殴られて疲弊して意識がどっか行ったとき、己の口から無意識にでた真言で、意識が飛んでいることに気づける。
 僕は自殺したい気持ちになったら、自分の視野が狭くなっていると思い出す。これは森博嗣が「自殺者は視野が狭かったのでしょう」と書いていたから、それを採用している。困難に直面するとそっぽを向いて困難を見ないふりしている、とも言えるけれど、まあ、死んでしまうよりは断然いいだろう(これを甘やかしと言われれば否定しないぞ(高い視点から悠々解決できたら凄いけど、僕はそう凄くない))。命綱みたいなもんだ(これを絆(鎖枷)と言われれば否定しないぞ)。
 平沢進はANOTHER GAME step 1にて「平和と家族を愛するものが、兵器工場で働くこと」や「万一の事態にそなえ宇宙空間で生活する技術と、万一の事態を引き起こす技術が同じであること」にキーワードを作り、似たような状況を探し、しっかりと意識しなさい、と言う。これはバイオフィードバック。そのキーワード概念を見つけた時の感情や違和感にも新たなキーワードを作り、その新たなキーワード世界から見える感情やアイディアに期待しなさい。というのがあって、さらにバイオフィードバック。意識下と意識を、途中式と解答にたとえるなら、平沢進がよい師であることはすぐに分かると思う。もちろん、間違いを気付いた人にとっては(是とする人と、是としない人。この二種類に分けられないのを注意(『詩羽のいる街』にもあったな。「意識的に悪を為す者は、なにも考えないで善悪を作用する者より、意識的に善を為す者に近い」みたいの※1))。
 触れん意識を濾すためのザルが一つじゃ心は増減するものでしかしないから。
 名付けの力は言うまでもなく、いちばん遭遇する未知なる名が他人だろうからコミュニケーションが楽しいものだと推測されるし、自分が楽しまれると別な世界が裂けて生まれるその喜びもあらわる。
 自分のことでも気づかないことがあるし、会ったことないのにだいたい分かるよな人もいる。どちらがどうってわけでなく、それでも中庸や人それぞれや場合によるんではなく、答えだけ見るのはねぇってだけで。他人の答案に自分の名前を書きたくはないでしょ。答えはするけれど正答のない、大喜利もあるし。

 勉強は未知を知ることだけど、知らざるを知らずと為す是知るなり寄りの勉強方法なのかな。発掘というか無行動型勉強というか勉強した気になる体操というか……。


※1 意識善と意識悪は近い、という話。正味これ読んでいる人(読もうという忍耐を持つ知的生命体)が、「意識して善を為すのと意識して悪を為すのは近い」という言い分を理解できないはずがないので、説明するのも馬鹿らしいけれど、一応。
 善と悪だけを二極化して、善の反対は悪であるから、概念として善悪が対立し遠いものだという前提がある。そして向こう見ずな善や臆病な悪が、悪や善の結果を生じさせることもある。たとえば犯罪者は悪だから絞首刑にせよ、土民は悪魔だから射殺せよ、あいつは嘘つきだから泥棒として扱うとか、川で溺れている子どもを助けようとして自分が溺死するとか。気配りの延長に嘘があったり、嘘の延長に優しさがあったり、大東亜共栄圏の延長に人類愛があったり。先後はともかく、善や悪の行為がそのまま善や悪として作用されるわけではなく、また時代背景によって善悪は違うし、当人の善悪判断が観察者と違うこと、観察者の善悪判断が常識とは違うこと、常識の善悪判断が当人と違うこと、善悪判断によって生じた結果(あるいは制裁、断罪)が当人・観察者・常識とは違うこと。。続けてみればいくらでも書けるけれど、ま、とにかく。辞書的に、善の反対は悪なわけですよ。悪の反対は善なわけですよ。数直線的に。善ーーーー悪。この数直線にAを投げ込めば、数直線のどこかに必ず置ける。でもそれは二次元人の視点で、奥行きのないもの。1+1=2だけれどx(1+1)=2が成り立つためには、xが1である必要がある。xが1じゃない場合は? 1+1が括弧に囲われていることを知り、括弧の外にあるxを認識したのなら、答えを2とするのは早稲田&慶応になる。答えを出すにはまだ早いので、右辺は空欄にしておこう。枠の外にあるxに気付いて、xが1でない可能性があるのに、1と1を足せば2であると言う事実だけをもとに、それを答えとして記入したら、ペケ。x(1+1=2)=2xと想像するのは、面白いけれど。
 話を戻して。「意識して善/悪する」の「意識して」がxに値する。xは善ーーーー悪の数直線の外にある。外、ではないか。全ての事象がこの数直線上に置けるのなら、二次元人の視点では感知できない奥行きとして、外ではなく奥としてxの効果が存在する。数直線には表せないから平面になる。僕の大好きな四象限図だ。意識善、無意識善、無意識悪、意識悪。善と悪が数直線、意識と無意識が数直線、意識善の対偶が無意識悪で、意識悪の対偶が無意識善になるから、意識善を第一象限に置けば、無意識善は第二、無意識悪は第三、意識悪は第四に置かれる(図1)。このあとは傾けてから同じ軸で中間のものを検討しても良いし(図2)、善悪と対になるものを検討してもいい(図3)。省くけれど、善悪と意識無意識を全部第一象限に置いてもいいし、全部数直線の真ん中においてもいい。無意識をX線上に置いて考えてもいいし、どれかを原点においてプラネたりしてもいいし、善や悪や意識無意識を数値化して位置を調節して4つの座標の距離を検討して普遍性を高める努力をしてもいい。善悪の対になるものを美醜として、無意識醜を意識善と同じ位置においてもいい。なにをしてもいい仮定だから。
 本当に話を戻す。すごく具体的にする。(数値や善悪という言葉は便宜上のものです)
 日本人口が1億人として、意識して善を為す人は4000万人いる。意識して悪を為す人は1000万人いる。その他の5000万人の内4000万人は意識なく善を為しがちで、残り1000万人は意識なく悪を為しがち。悪を為すと損が多く、善を為すと得が多いため、自然、人は善を為すものが多くなるとされる。
 賢い人間が注意を払えば悪を為す損を避けることができ得だけを受けることもできる。
 そして本題はここから。
 『詩羽のいる街』三章では、巧妙に迷惑行為を行い内心ほくそ笑む悪人が出てくる。図書館の推理小説のオチ部分を切り捨てたり、カップ麺の底に穴開けたり。ささいだけど本当に腹の立つ悪事。推理小説の一番楽しいところ、なにが大事かを「知った上」で行っている悪事。この悪人を探し当て、この悪人の行為で"自殺未遂"した子と対面させ「後悔」させたり、街の人と触れ合わせて「親切」させたりして、そのあと、主人公は聞くわけですよ。「悪を為し損を避け続けられるほどの賢い人ならば"得を得る目的"のためには悪ではなく善を為したほうが効率よいと納得できるはずだ」「善も悪もする何も考えない人はあまりに多く、彼らを考えさせるようにするのは手に余るが、元々考える人間ならば手の施しようはある。なぜなら悪を為すより善を為すのが自然だから」みたいなことを言ってる。うへー言い切ったなあと当時思った。いや当時は「そうだよなあ」としか思わなかったかな。今のほうが、も少し、他を見ている……。
 善為す猿や悪為す猿と悪為す人と善為す人の中で話が通じるのは誰?って話なんでしょう? 言い過ぎだと思うよ~ぺぺ~。


2017/7/7 金 例えば無し

 たとえ話について。
 たとえ話が大好きです。なんでかって言ったら、なんでかって言う(こだまでしょうか。JA)。
 たとえ話はA≒X'でしかない。AはX'っぽいよね、X'のようなものだよ、'がついてるよって、っつってもだからどうしたって感じだ。勝手に違うものを持ってきて、なんとなく、たしかにそうかもみたいな、雰囲気を作る。作らなくっても、AはXでない理由をたくさんあげて、AはXではないという決着を見せることもある。理由がたくさん述べられる。A以外Aじゃないの(E~じゃないのォ~)。
 なにも言ってないとしても、なにかを言っていることになる。Xの中身が無でも、無を言うのは限りなく難しい。ボディランゲージみたいな(たとえだ)、タップダンスみたいな(嫌いだ)。
 無を言うのは、状態が変化しないのにエネルギーが生じてるようなものかもしれない。エネルギィは、水中なら水流を生み、空中なら風を生む。そういうエネルギのイメージがある(たとえ)。動きがあるなら、場所が変わったり邪魔なものが飛んでったり、開いたり見えたりするのだろう。閉じたり見えなくなって、錯視絵みたいな(たとえ)感覚を楽しむことも出来る。
 AとX'自体ではなく≒が存在し、それに着目できることがたとえ話の偉さかもしれない。西原町と新宿区でなにかたとえてみたら、まるで姉妹都市になりかけてもおかしくなく思えるようになるかもしれないけど(しないかもしれないけど)、切り捨て0%の仮定だったとしても、たとえをしなければ元々の通り0%のまんまだから、関係ないものとの縁をつなぎ、縁が太くても細くても張っててもたるんでても、その縁の状態から察することは多いのだろう。チューニングをする人にとっての、ギターの(星野)弦みたいなものだろう(適当)。仮定の結果完全な0%が証明されても、これが会議ならば(たとえ)議事録には残るし、のちのち証言の裏付けのための伏線にもなりうる。
 道があって歩いてる人はたくさんいるし、なんでもないことだけど、これがたとえ話の中ならどうなの。
「たとえば君の目の前には上がることも下ることもない平坦に舗装された道があって、その道を一歩一歩、歩くことができる。それに、走ることもできる。もちろん立ち止まることもできるし、君が自転車を持っていれば、何倍もの速度でその道を通過するだろう」
 なんというか、すごく恵まれた環境にいる人に思えてくる。健康な体で産んでくれた両親に感謝したり、神に感謝したり、工事のおっちゃんに感謝したり、21世紀に感謝したり、自転車を持っていることがものすごくレアで誇らしいことにも思える。なんでもないことだったはずなのにね。頑張ろうと思ったり、このままでは上に行けないと思ったり、向こうから暴走する車やガードレールを想像したり、そもそもどこへ続く道なのか、先にある分かれ道はなに、とか。振りかってみて、どこから来たのかとか。無限に考え直せたり納得したり再確認したり反骨大爆発できる。受け取り方次第だからキッカケ作りのための血液型占いのようにも思える。
 たとえ話は、あなたに気付きを与える親友のようなものだ(ドヤ顔たとえ(恥))。


2017/5/25 木 bye bye

 この恋人達は別れないだろうと思っていたのに別れてしまったみたいだけど、別な付き合い方をしている。形が違っただけで、ケリが着いたからって、一切が吹き飛んでしまうわけでもない。「今後は地動説にしましょう」って言っても、星の動きは変わんないし。星があるだけでいいなら、どっちだっていいのかもしんない。昼だと特に。
 僕は天体にあまり興味が無いので(比喩ではない)、ケリが着いた人は星であればいいなと思ってる(比喩)。(その心は)自分の見える世界のどこかにその星があったことを時折思い出せたらいいなと。星の光は全て過去のものらしいけれど(伝聞)、自分の過去になにがあったかを、どんな人と会ったかを、思い出し笑いして、思い出し苦笑いして、思い出し反省したりして、懐かしめたら、いいなと。死者の死は誰に記憶からも消え去った時と言うから、気になる。
 あったなーってよく思う人から、連絡あって、びっくりした。星が落ちてくることもある(君の那覇)。


2017/5/10 水 ゴーストインザシェラー

ハリウッド版GHOOSUTO IN THE SHELL見てきました。上映終了二日前平日朝にも関わらず、席は「コミケ三日目終了後の最寄り映画館のポッピンQ」の七倍くらい埋まってました。大学生っぽいカップル(アベック)が2アベック(計4人)いましたね。士郎正宗オタクもいました(外見で断定)。前評判や中評判通り、原作改変が目立ち、ファンであるほど怒るのだろうな、という作品。(熱心なファンではないからか)僕は笑ってました。
冒頭、例の「あらゆるネットか~~”孤人”が~~」のような文章が出るのですが、例の通りではないんですよね。たしか「機械の体に人間の脳を埋め込んだものは人間と呼べるのだろうか?」のような文章でした。伝達力が極めて高いはずの「言葉」ですら、すでに「既知のものでない」のなら、そこに「既知のもの」を期待するほうが愚かでしょう。再現や追従を選んでいないんですから、再現や追従を求めても、仕方ないですよね。話せばわかると主張する人には問答無用と斬りつけましょう。
ただストーリーや焦点が似ていないだけで、ガワではリスペクトを感じましたね。「あっこれアニメで見たシーン!」と思える映像がいくつもありました。あったからなんだって感じですが。足ひれだけでダイビングするし、ハラウェイみたいなやつのダイブはだいぶださいし。原作類から、記憶の一点だけをそぎ落としてガワを肉付けすると、どれだけ薄まるのか、分かりました。いい経験です。
結論としては「話題の種にはなるが何も実らない」って感じでした。だれか死ぬシーンでスローになるたび笑っちゃうサイコパス野郎になってました。
あ、でも、収穫として、1.5や'95が08年にリメイクしてたことを知れてよかったです(熱心なファンではないので)。


2017/5/4 木 ダイアルアッパー

4月頭に戸別訪問できた兄ちゃんに「ネットつなぎませか」と誘われちょっとだけならと思い三年契約し、ようやっと繋がりました。文明! でもなんかびみょーにレスポンスまでの時間があり、twitterを開いてみても、スマホより全然遅い~。もちろん通信規制時よりは全然早いし、こうして(このように!)PCからインターネットできるので、このように(ひさびさに!)更新しました。

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