201705-10


2017/5/4 木 ダイアルアッパー

4月頭に戸別訪問できた兄ちゃんに「ネットつなぎませか」と誘われちょっとだけならと思い三年契約し、ようやっと繋がりました。文明! でもなんかびみょーにレスポンスまでの時間があり、twitterを開いてみても、スマホより全然遅い~。もちろん通信規制時よりは全然早いし、こうして(このように!)PCからインターネットできるので、このように(ひさびさに!)更新しました。


2017/5/10 水 ゴーストインザシェラー

ハリウッド版GHOOSUTO IN THE SHELL見てきました。上映終了二日前平日朝にも関わらず、席は「コミケ三日目終了後の最寄り映画館のポッピンQ」の七倍くらい埋まってました。大学生っぽいカップル(アベック)が2アベック(計4人)いましたね。士郎正宗オタクもいました(外見で断定)。前評判や中評判通り、原作改変が目立ち、ファンであるほど怒るのだろうな、という作品。(熱心なファンではないからか)僕は笑ってました。
冒頭、例の「あらゆるネットか~~”孤人”が~~」のような文章が出るのですが、例の通りではないんですよね。たしか「機械の体に人間の脳を埋め込んだものは人間と呼べるのだろうか?」のような文章でした。伝達力が極めて高いはずの「言葉」ですら、すでに「既知のものでない」のなら、そこに「既知のもの」を期待するほうが愚かでしょう。再現や追従を選んでいないんですから、再現や追従を求めても、仕方ないですよね。話せばわかると主張する人には問答無用と斬りつけましょう。
ただストーリーや焦点が似ていないだけで、ガワではリスペクトを感じましたね。「あっこれアニメで見たシーン!」と思える映像がいくつもありました。あったからなんだって感じですが。足ひれだけでダイビングするし、ハラウェイみたいなやつのダイブはだいぶださいし。原作類から、記憶の一点だけをそぎ落としてガワを肉付けすると、どれだけ薄まるのか、分かりました。いい経験です。
結論としては「話題の種にはなるが何も実らない」って感じでした。だれか死ぬシーンでスローになるたび笑っちゃうサイコパス野郎になってました。
あ、でも、収穫として、1.5や'95が08年にリメイクしてたことを知れてよかったです(熱心なファンではないので)。


2017/5/25 木 bye bye

 この恋人達は別れないだろうと思っていたのに別れてしまったみたいだけど、別な付き合い方をしている。形が違っただけで、ケリが着いたからって、一切が吹き飛んでしまうわけでもない。「今後は地動説にしましょう」って言っても、星の動きは変わんないし。星があるだけでいいなら、どっちだっていいのかもしんない。昼だと特に。
 僕は天体にあまり興味が無いので(比喩ではない)、ケリが着いた人は星であればいいなと思ってる(比喩)。(その心は)自分の見える世界のどこかにその星があったことを時折思い出せたらいいなと。星の光は全て過去のものらしいけれど(伝聞)、自分の過去になにがあったかを、どんな人と会ったかを、思い出し笑いして、思い出し苦笑いして、思い出し反省したりして、懐かしめたら、いいなと。死者の死は誰に記憶からも消え去った時と言うから、気になる。
 あったなーってよく思う人から、連絡あって、びっくりした。星が落ちてくることもある(君の那覇)


2017/7/7 金 例えば無し

 たとえ話について。
 たとえ話が大好きです。なんでかって言ったら、なんでかって言う(こだまでしょうか。JA)。
 たとえ話はA≒X'でしかない。AはX'っぽいよね、X'のようなものだよ、'がついてるよって、っつってもだからどうしたって感じだ。勝手に違うものを持ってきて、なんとなく、たしかにそうかもみたいな、雰囲気を作る。作らなくっても、AはXでない理由をたくさんあげて、AはXではないという決着を見せることもある。理由がたくさん述べられる。A以外Aじゃないの(E~じゃないのォ~)。
 なにも言ってないとしても、なにかを言っていることになる。Xの中身が無でも、無を言うのは限りなく難しい。ボディランゲージみたいな(たとえだ)、タップダンスみたいな(嫌いだ)。
 無を言うのは、状態が変化しないのにエネルギーが生じてるようなものかもしれない。エネルギィは、水中なら水流を生み、空中なら風を生む。そういうエネルギのイメージがある(たとえ)。動きがあるなら、場所が変わったり邪魔なものが飛んでったり、開いたり見えたりするのだろう。閉じたり見えなくなって、錯視絵みたいな(たとえ)感覚を楽しむことも出来る。
 AとX'自体ではなく≒が存在し、それに着目できることがたとえ話の偉さかもしれない。西原町と新宿区でなにかたとえてみたら、まるで姉妹都市になりかけてもおかしくなく思えるようになるかもしれないけど(しないかもしれないけど)、切り捨て0%の仮定だったとしても、たとえをしなければ元々の通り0%のまんまだから、関係ないものとの縁をつなぎ、縁が太くても細くても張っててもたるんでても、その縁の状態から察することは多いのだろう。チューニングをする人にとっての、ギターの(星野)弦みたいなものだろう(適当)。仮定の結果完全な0%が証明されても、これが会議ならば(たとえ)議事録には残るし、のちのち証言の裏付けのための伏線にもなりうる。
 道があって歩いてる人はたくさんいるし、なんでもないことだけど、これがたとえ話の中ならどうなの。
「たとえば君の目の前には上がることも下ることもない平坦に舗装された道があって、その道を一歩一歩、歩くことができる。それに、走ることもできる。もちろん立ち止まることもできるし、君が自転車を持っていれば、何倍もの速度でその道を通過するだろう」
 なんというか、すごく恵まれた環境にいる人に思えてくる。健康な体で産んでくれた両親に感謝したり、神に感謝したり、工事のおっちゃんに感謝したり、21世紀に感謝したり、自転車を持っていることがものすごくレアで誇らしいことにも思える。なんでもないことだったはずなのにね。頑張ろうと思ったり、このままでは上に行けないと思ったり、向こうから暴走する車やガードレールを想像したり、そもそもどこへ続く道なのか、先にある分かれ道はなに、とか。振りかってみて、どこから来たのかとか。無限に考え直せたり納得したり再確認したり反骨大爆発できる。受け取り方次第だからキッカケ作りのための血液型占いのようにも思える。
 たとえ話は、あなたに気付きを与える親友のようなものだ(ドヤ顔たとえ(恥))。


2017/7/22 土 びゃーおふぃーどばっく

 バイオフィードバックってののwikipediaを読み込んだ(PCが)。ざっくりいうと自分の体温とか血圧とか脳波とか、そういうの数値化したり視覚化したりして、本人に認識させること。卑近な例(言いたいだけ)だと、心拍数ずいぶん高いから自分が緊張していることに気付く、みたいな。気づかないことや、感じてはいるけれど意識できない・見過ごしていることを、意識させる。現代では脈拍数計るのは自分の意思によってだから「無意識」感低いけど、身体どっか機械埋め込んで、グラス型モニターに自分の身体情報が提示されるようになれば、バイオフィードバック感増す。普段通りツイートしたら反響大で「あっこういう感じのツイートが受けるんだな」と気付く……みたいな。これは単なるフィードバックか。
 知悉っぽいのに意外の代表が、自分の体なんだろう。
 で。
 喧嘩稼業の梶原というキャラクタは意識朦朧になると、真言を発するように自分を「設定」している。いざ戦闘中にしこたま殴られて疲弊して意識がどっか行ったとき、己の口から無意識にでた真言で、意識が飛んでいることに気づける。
 僕は自殺したい気持ちになったら、自分の視野が狭くなっていると思い出す。これは森博嗣が「自殺者は視野が狭かったのでしょう」と書いていたから、それを採用している。困難に直面するとそっぽを向いて困難を見ないふりしている、とも言えるけれど、まあ、死んでしまうよりは断然いいだろう(これを甘やかしと言われれば否定しないぞ(高い視点から悠々解決できたら凄いけど、僕はそう凄くない))。命綱みたいなもんだ(これを絆(鎖枷)と言われれば否定しないぞ)。
 平沢進はANOTHER GAME step 1にて「平和と家族を愛するものが、兵器工場で働くこと」や「万一の事態にそなえ宇宙空間で生活する技術と、万一の事態を引き起こす技術が同じであること」にキーワードを作り、似たような状況を探し、しっかりと意識しなさい、と言う。これはバイオフィードバック。そのキーワード概念を見つけた時の感情や違和感にも新たなキーワードを作り、その新たなキーワード世界から見える感情やアイディアに期待しなさい。というのがあって、さらにバイオフィードバック。意識下と意識を、途中式と解答にたとえるなら、平沢進がよい師であることはすぐに分かると思う。もちろん、間違いを気付いた人にとっては(是とする人と、是としない人。この二種類に分けられないのを注意(『詩羽のいる街』にもあったな。「意識的に悪を為す者は、なにも考えないで善悪を作用する者より、意識的に善を為す者に近い」みたいの※1))。
 触れん意識を濾すためのザルが一つじゃ心は増減するものでしかしないから。
 名付けの力は言うまでもなく、いちばん遭遇する未知なる名が他人だろうからコミュニケーションが楽しいものだと推測されるし、自分が楽しまれると別な世界が裂けて生まれるその喜びもあらわる。
 自分のことでも気づかないことがあるし、会ったことないのにだいたい分かるよな人もいる。どちらがどうってわけでなく、それでも中庸や人それぞれや場合によるんではなく、答えだけ見るのはねぇってだけで。他人の答案に自分の名前を書きたくはないでしょ。答えはするけれど正答のない、大喜利もあるし。

 勉強は未知を知ることだけど、知らざるを知らずと為す是知るなり寄りの勉強方法なのかな。発掘というか無行動型勉強というか勉強した気になる体操というか……。


※1 意識善と意識悪は近い、という話。正味これ読んでいる人(読もうという忍耐を持つ知的生命体)が、「意識して善を為すのと意識して悪を為すのは近い」という言い分を理解できないはずがないので、説明するのも馬鹿らしいけれど、一応。
 善と悪だけを二極化して、善の反対は悪であるから、概念として善悪が対立し遠いものだという前提がある。そして向こう見ずな善や臆病な悪が、悪や善の結果を生じさせることもある。たとえば犯罪者は悪だから絞首刑にせよ、土民は悪魔だから射殺せよ、あいつは嘘つきだから泥棒として扱うとか、川で溺れている子どもを助けようとして自分が溺死するとか。気配りの延長に嘘があったり、嘘の延長に優しさがあったり、大東亜共栄圏の延長に人類愛があったり。先後はともかく、善や悪の行為がそのまま善や悪として作用されるわけではなく、また時代背景によって善悪は違うし、当人の善悪判断が観察者と違うこと、観察者の善悪判断が常識とは違うこと、常識の善悪判断が当人と違うこと、善悪判断によって生じた結果(あるいは制裁、断罪)が当人・観察者・常識とは違うこと。。続けてみればいくらでも書けるけれど、ま、とにかく。辞書的に、善の反対は悪なわけですよ。悪の反対は善なわけですよ。数直線的に。善ーーーー悪。この数直線にAを投げ込めば、数直線のどこかに必ず置ける。でもそれは二次元人の視点で、奥行きのないもの。1+1=2だけれどx(1+1)=2が成り立つためには、xが1である必要がある。xが1じゃない場合は? 1+1が括弧に囲われていることを知り、括弧の外にあるxを認識したのなら、答えを2とするのは早稲田&慶応になる。答えを出すにはまだ早いので、右辺は空欄にしておこう。枠の外にあるxに気付いて、xが1でない可能性があるのに、1と1を足せば2であると言う事実だけをもとに、それを答えとして記入したら、ペケ。x(1+1=2)=2xと想像するのは、面白いけれど。
 話を戻して。「意識して善/悪する」の「意識して」がxに値する。xは善ーーーー悪の数直線の外にある。外、ではないか。全ての事象がこの数直線上に置けるのなら、二次元人の視点では感知できない奥行きとして、外ではなく奥としてxの効果が存在する。数直線には表せないから平面になる。僕の大好きな四象限図だ。意識善、無意識善、無意識悪、意識悪。善と悪が数直線、意識と無意識が数直線、意識善の対偶が無意識悪で、意識悪の対偶が無意識善になるから、意識善を第一象限に置けば、無意識善は第二、無意識悪は第三、意識悪は第四に置かれる(図1)。このあとは傾けてから同じ軸で中間のものを検討しても良いし(図2)、善悪と対になるものを検討してもいい(図3)。省くけれど、善悪と意識無意識を全部第一象限に置いてもいいし、全部数直線の真ん中においてもいい。無意識をX線上に置いて考えてもいいし、どれかを原点においてプラネたりしてもいいし、善や悪や意識無意識を数値化して位置を調節して4つの座標の距離を検討して普遍性を高める努力をしてもいい。善悪の対になるものを美醜として、無意識醜を意識善と同じ位置においてもいい。なにをしてもいい仮定だから。
 本当に話を戻す。すごく具体的にする。(数値や善悪という言葉は便宜上のものです)
 日本人口が1億人として、意識して善を為す人は4000万人いる。意識して悪を為す人は1000万人いる。その他の5000万人の内4000万人は意識なく善を為しがちで、残り1000万人は意識なく悪を為しがち。悪を為すと損が多く、善を為すと得が多いため、自然、人は善を為すものが多くなるとされる。
 賢い人間が注意を払えば悪を為す損を避けることができ得だけを受けることもできる。
 そして本題はここから。
 『詩羽のいる街』三章では、巧妙に迷惑行為を行い内心ほくそ笑む悪人が出てくる。図書館の推理小説のオチ部分を切り捨てたり、カップ麺の底に穴開けたり。ささいだけど本当に腹の立つ悪事。推理小説の一番楽しいところ、なにが大事かを「知った上」で行っている悪事。この悪人を探し当て、この悪人の行為で"自殺未遂"した子と対面させ「後悔」させたり、街の人と触れ合わせて「親切」させたりして、そのあと、主人公は聞くわけですよ。「悪を為し損を避け続けられるほどの賢い人ならば"得を得る目的"のためには悪ではなく善を為したほうが効率よいと納得できるはずだ」「善も悪もする何も考えない人はあまりに多く、彼らを考えさせるようにするのは手に余るが、元々考える人間ならば手の施しようはある。なぜなら悪を為すより善を為すのが自然だから」みたいなことを言ってる。うへー言い切ったなあと当時思った。いや当時は「そうだよなあ」としか思わなかったかな。今のほうが、も少し、他を見ている……。
 善為す猿や悪為す猿と悪為す人と善為す人の中で話が通じるのは誰?って話なんでしょう? 言い過ぎだと思うよ~ぺぺ~。


2017/7/28 金 世界に親切

 世界に親切を忘れず先週書いたものを読みやすく書きます。書いているものがいろいろとっちらかってて、これでいいやろと思ってましたがまあ不親切極まる次第で御座いますので。


 バイオフィードバックその1(バイオフィードバックとはなんぞや)
 バイオフィードバックという言葉を聞いたのは何度かありますがその言葉を調べたのは平沢進のANOTHER GAME step 1を聞いてからです。
 すっごい「意味深」な曲……というか語りなのでどのような反応が為されているか調べていたら、感想は「深イイ」くらいしかありません。がっくし。何かのサイトでこの曲は「バイオフィードバックを促す語り」というよーな説明がなされていました。バイオフィードバックとはなんぞや。そこで初めて検索してみたところ、日本バイオフィードバック学会というものがあるようです。日本バイオフィードバック学会認定バイオフィードバック技能士というのもいるようです(?)
 人間、意識ないところで色々なことが起きており、この「意識の外」にあるものを「意識」することで、色々なことが起こる。これ自体はフィードバックでしょう。トライ&エラーみたいなね。
 「意識の外」にあるものが、自分自身に関する情報の場合に、バイオの接頭語がつくんでしょう。
 この「意識の外」。体温とか感覚とか内臓脂肪とか、ふだん意識しないもの・出来ないものは、自分の体のみとはいえたくさんありそうですが、「意識の外」で一番意識に近いものは「無意識」なのでしょう。
 なのでしょうか?
 無意識よりも意識に近く、かつ意識できないものがあるように思えます。それは、認識できるけれどそれについて意識を割かないものでしょう。これを仮に「見過ごし意識」と呼びます。たとえば目を開けば視界一杯にさまざまなものが映りますが、意識できるのは1割程度だと言われてます。視覚情報は膨大なので、全部を意識すると、脳みそがてんてこ舞うからとのこと。
 机の上から少しはみ出た空のコップがあったとして、視界には映るのにそのコップ自体に焦点を合わせないのが「見過ごし意識」、コップが空だからと内心計算して注意するまでもないと判断しているなにものかが「無意識」のように思えます。同じ「見えるのに見えない」だったとしても、過程が違うんですね。
 空のコップでたとえましたけど、バイオ=自分の体の中で見過ごしているものってなんでしょう?
 これは実際にある話なのですが、大きな事故により怪我をした者が、それを見たものの言葉で本当に助からないと思い、出血がひどくなり死んでしまう、もし悲観的な言葉は助かるものも殺してしまう、励ましの言葉を是非という話がありました。怪我人をみて「唾つけりゃ治る傷やんけ」と言うか「いまにも"死んだあとに行く三つの栄えのうち最低ランクの星の栄えでも地球にはないくらいの栄光があるらしいし上位の栄えから宣教師が来るらしいからそこで改宗すればより上の栄えに行けるし裁かれる前の待合室的なところでも改宗チャンスあるらしいよ!」と言うかの違いで、生きるか死ぬか、すっかり変わってしまうんですね。気をつけましょう。
 ただこれは、他人の声の話。自分自身だけで完結するバイオフィードバックとはちょっと違うかな?(自分の目で自分の傷口を覗いた場合を除く)
 自分の中で完結して、それ自体が外へ飛び出すことがないもの。心です。意識が外のなにかを見逃していると同時に、心それ自体も見逃されているのです。
 ここでいう心は、意識だけでなく感情や意思や理解を含みます。脳というと肉体的すぎるきらいがあるし、もともと脳自体は意識できませんしね。
 意識も若干脳っぽい感じがしますね。理解は心っぽいけれど、感情や意思に比べるとほんの少し脳よりかな? もう少し語彙があれば違う言葉でニュアンスを確かめることができるのだけど……。
 と。はい。うわっ。あっバイオフィードバックしてしまった。「意識」「感情」「意思」「理解」という言葉が脳的か心的かなんて今まで考えたことありません。それを今考えました。自分が文章を書く内に。
 教わるより教える方が身につくとか、相槌を打つだけで相手の悩みが解決するとかも、なにかしら、そのような力が働いている気がしますね。
 あー、たぶんこういうのが「遠心的」なんでしょう。あっバイオフィードバックしてしまった(今年の流行語)。ちょ、バイオフィードバックとか言わないでくださいよ~(三年くらい前の流行語)。

 続きは後日。原文の一段がここまで伸びたのは、まあ、つまり、これまで不親切野郎でしたってことですね。 


 バイオフィードバックその2(自殺防止スイッチ)

 喧嘩稼業とEXILEのハイ&ロウの両方が好きな人間は才能ある人という推論があるのですが、今のところ破られていません。といってもサンプルは2人だけですが(斜線堂さんはBIGになるよ)。
 皿屋敷さんも大好きな喧嘩稼業に、梶原というキャラクタがいます。なかなかの噛ませ役で現在進行中のトーナメントでも早々に退場してしまいました。しかし次回の世界編でも登場しそうなので嬉しい。
 この漫画は格闘漫画なので、殴ったり殴られたりします。殴られると痛いです。殴られると意識がふっとんだりします。意識がふっとべば隙だらけなのでボコボコにされ負け、死んでしまいます。これではいけませんね。梶原さんは自分の意識が曖昧になったとき、「オン・マリシ・エイ・ソワカ」と、真言を唱えるよう訓練してます。意識が曖昧になっていると、身体が意識に訴えるわけですね。
 曖昧な意識(俺は意識清明だ)→口→耳→意識(あっ俺は意識曖昧だ)
 これはよくある話で、悩み事が多いとため息をつく、というのも同じでしょう。退屈なときにあくびをするとか。これは先天性か後天性かは分かりませんが、そのような常「識」があるのはたしかでしょう。
 僕にもひとつ憶えがあって、それは「自殺をするものは視野が狭い」という森博嗣の言葉です。実際はこんな断定的な文章ではありません。前後の文も忘れてしまいました。けれど「そうなのだろう」と、採用しています。
 採用とは「僕もそのように捉えている。考えるまでもなく、そういうものだと思っている」ということです。もちろん「100%」「絶対に」とはいいません。水は100度で沸騰するくらいのニュアンスです。気圧がどうとか、実際は0.0なん度の誤差があるだとか、そういう厳密さを欠いたまま、「そういうものだろう」と思っています。(さらに厳密さを欠いた例では、昔は重力が弱く人は巨人であったと採用しています)
 さて。自殺をするものは視野が狭いという性質を認めるのなら、つまり、自殺をしたくなったときは視野が狭まっていると捉えることが出来ますよね。だから僕は自殺したくなったときに、「視野が狭まっている!」と、武家諸ハッとすることが多くありました。おかげで直接的で決断的な行動を取らずにいられました。
 けれども、「視野が広ければ自殺しない」という対偶を持ち出して、「自殺しない限り視野は広い」と誤解して、視野が広くなったと思い込んだまま、ただ単に「視野狭く生きている人」になっているような気もするのですが……。(要反省。ただし自殺行為はNO)
 広い視野で、自殺したくなるような、目に余る状況を退けていきたいものです(願望)。

 もちろん、森博嗣の言葉がなくても自殺はしなかったかもしれませんが、それは、もし○○に出会わなかったら連続殺人鬼になっていただろうと言うのと同じです。○○に出会えてよかったね、というだけの話です。○○に出会えてよかった人に、もし○○と出会えなかったと仮定を持ち出したとき、ひとつ確実なのは、現状の「よかった」がひとつ無くなっていることだけでしょう。もしくは、出会った○○と出会わなかったことだけです。

 またひとつ思いついてしまいました。
 文章を書きながら「たとえば、横道があるとき、まっすぐか曲がるか選択できるあみだくじがあるか?」と書こうとして、想像すると、「いやこれ普通にありそうだな」と思い、書きませんでした。
 経路を選択できるあみだくじ。
  たとえば、普通にあみだくじやったら真下につくあみだくじがあって、それの経路が選択できるのなら、そのあみだくじの引き方によって、なにがしかの精神判断ができるのかもしれない。左脳が強いから終点が右に寄りがちとか、右に曲がったら左に曲がりたがるから前世はゴキブリだとか。こーいうのって、チャンスレベル(偶然以上)のなにかがあるだろうから、面白い。それともないのかな?
 たとえば、「最初選択した場所から普通にたどる。終点には数字が書いてある。あらためて選択した場所から、その数の分だけ曲がって同じ終点に到着しなければならない。」みたいなゲームができませんかね。
 タイムアタック制でしょうか。「くじの、より下側で曲がり数を0にすると勝ち」とか? あるいは「かつてのルートを通るときは曲がる数を消費しない」と追加ルールして「違う終点に到着しなければならない」だと難しそうです(後半、どのルートも通った形跡があるので曲がり数を消費しにくい)。「二度目に通ると通った形跡が消える」とすれば「すべての終点についたとき、より形跡が多い方が勝利」としてもいいかもしれません(でも紙とペンじゃ難しいかな。アプリ的なマシーンならなんとか)。あ、偶数回目はペンでなく消しゴムで引いて、消えた線上は自動的に真下に落ちることにして、なんらかのゲーム性がまたできそう。
 それで、このあみだくじ的なもの。的なもの。あみだくじから離れて、あみだくじ的にすること。あみだくじを土台にした別の「まだないであろうもの」。質は別にしてね、ある点から跳躍したってこと。これも遠心的かな?


 ANOTHER GAME step 1(想像力)
 以下、p-model『ANOTHER GAME』から「ANOTHER GAME step 1」

ANOTHER GAME step 1
楽な姿勢で座り目を閉じて下さい。
いまから私が三つ数えるとあなたはリラックスします。
1……あなたはリラックスしていきます
2……深くリラックスしていきます
3……あなたはリラックスしています
そのままで、出来るだけリアルに、あなたの環境を思い浮かべて下さい。
イメージでその空間を広げてゆき、何千キロも離れたところにいるであろう、一人の男を思い浮かべて下さい。
彼は平和な家庭を持ち、家族を愛しています。仮にその愛が世界を救えるのだとしても、世界は彼から職を奪うことは出来ません。兵器工場の働き口をです。
意識を集中して、世界と彼に関するこの礼儀正しい「ループ」をあなたの脳活動の中から探し出し、いついかなる場合にも、それを思い出せるよう、あなた自身のキーワードを作って下さい。
もう一度男を思い浮かべて下さい。今度は別な男です。
彼は有能な科学者であり、然るべき理由によって、然るべき自体に備え、人類を宇宙空間に移住させるためのプロジェクトを持っています。しかしあなたは、この人類地球脱出計画の理由と、人類地球脱出計画の技術がイコールであることを知ることが出来ます。
意識を集中してこのイコールを脳活動の中から探し出し、いついかなる場合にもそれを思い出せるよう、あなた自身のキーワードを作って下さい。
以上の事柄は、ほんの一例にすぎません。あなたはいまやイメージを広げ、あなたの日常の中から多くの類似した例を見つけることが出来ます。
現実の中で起こる、それらの脳活動に共通した条件を感じ取ることができ、もしもそれが奇妙なものに見えるのならば、その感覚と、その感覚を得ている現在のあなたの肉体的・精神的な状態を、いついかなる場合にも思い出せるよう、あなた自身のキーワードを作って下さい。
その状態から見る世界観と、その状態から得られるあらゆるアイディアに期待します。
さあ、もっとリラックスして下さい。もっと深くリラックスして下さい。
それでは音楽をお楽しみ下さい。

 はい。
 いやー、平沢進は好きなのですが歌詞はまともに理解できない(理解しようとも思えない)ので、このような語りや三行Blogで目にすると、やっぱり本当に深イイ人なんだなという念が強まります。僕が特に印象深いのは、親愛を示す他者に貰ったおはぎは悪いものが入ってるかもと思ってしまったことを自省する話です。
 さて、バイオフィードバック。なにが「見過ごし意識」なのでしょうかと言えば、それは「脳活動」の部分でしょう。脳活動の中から探し出し、というのは、つまり外へ出ることをせずとも、なにか思い当たることがあるでしょう? と問うてるわけです。これは記憶……の領域なのでしょうか。脳自体に詳しくないので分かりませんが。
 普段には見過ごされているものも、この語りを聞いて「ある男」という2つの補助線を引けば、それに類するものが思い浮かぶわけです。
 その補助線を引くことが出来なければ、永遠に日の目を見ない恐れもあります。そして、新しい定義からみる新しい世界観も、新しいアイディアもありません。逆に言えば、補助線を引くことができるのなら、なにか新しいものを手にできるのではないでしょうか。
 新しさだけではなく、たとえば美しさも。
 ある素晴らしいカメラマンに対して、「この人の目で世界を見てみたい」という人は、視力とか経済力とかPhotoshopの加工力とか、そんな話をしているのではなく、なにが美しいか分かっている人でなければどこにでも現れうるであろう美しいことを見逃してしまうだろう、このカメラマンは美をよく知っているけれど自分はあまり知らないのだろう、わたしはなにかを見落として生きてきたのでなかろうかと危惧しているのではないでしょうか。
 美しさだけではなく、たとえば残酷さも。
 ひどい例を出すと、中背の黄色人種しか人間と思っていない者が『ハゲワシと少年』の写真を見た時、シャケが切り身で泳いでいるのと同じ誤解をしてしまうのではないでしょうか。「へえ、これが人間? どっちの黒いのが?」みたいな。

 記憶にないことはなかったこととおんなじ……というのはs e lainにもありましたね。戦争の記録を後世に残そうとする人は、風化の先にある「無」をおそれているのでしょう。死語も、死語と言われている間は生きていて、言われなくなって初めて死ぬ……。人が死ぬのは全ての人の記憶から消え去った時とも言いますよね。
 カーペットに石を放ってもなにも起きませんが、水面に放るのならば波紋が生まれます。あるいは、カーペットも水面も、そこに何らかの運動が加わらなければ、決して波打つことなく、波紋を見ることも出来ません。
 もしキッカケがひとつもなければ、つまり死体のようになにも感じなければ、あらゆることは見過ごされてしまうのではないでしょうか。言葉がなければ思考もできない、という話のように。
 自分の頭のなかで一度の波紋を起こさない場所を作るのは、自分の世界あるいは可能性を狭めているように思えます。
 よりよい可能性があるには、波紋をなんども起こす、なんども考え続けることが大事で、考えることには、なにかのキッカケが必要なのではないのでしょうか。それが自分の内からなのか、他人からのものなのかはともかく、なにか新しいことをキッカケとして。


 なんでも順位付けマン(象限図)
 ものごとに順位つけること、ありますか? 僕はよくあります。このアルバムでこの曲が一番好き。このバンドでこのアルバムが一番好き。このレーベルでこのバンドが好き。この業界でこのレーベルが一番好き。この社会でこの業界が一番好き。この科目で社会が一番好き……などなど、順位付けをしてしまうわけです。二位三位四位までわざわざ明確なランキングは付けませんが、自分の中でなんらかの優劣をつけているわけです。ある部分に加点つけて、ある部分に減点つけて。そういうことを何の気なしにやって、それで総合的な「良さ度」を較べて、これが一番好きだって○○だものと言っているわけです。
 もちろん、そのように意識しているわけではありませんが、「意識の外」でカンジョウをカンジョウしているからこそ、一番だなんて言うのでしょうね。そう言い慣れてるから、ついそう言っちゃうのだとしても。女子高生の「サイテ~」みたいに(今の女子高生、まだ言ってるの?)。
  そのような順位、あるいは「良さ度」は、見ての通り、数字です。一位二位三位、減点加点。そのように計っていくのなら、自分の触れたものすべてが、マイナス無限からプラス無限までのひとつの数直線の上に置けますよね。並べて較べるのなら、奥行きは失われます。その一直線のものさしだけを、自分の価値観にしてしまえば、自分の意識は、そのものさしの指すとおりになり、まるで、ものさしだけが生きているようです。
 「自分の意見を否定されると瞬間湯沸かし器になる人」というのは、自分の意見≒価値観≒ものさしが否定されたと思っている、ものさしに支配された人に思えます。先入観強めですが、そのように思えます。人間と話している気になりません。死者ではありませんが、生きているとも言いかねます。
  まー、僕も、半ば死んだような人間ですが、なんとか生きてる感あるのは(ある?)、順位をつけるものさしが一直線のものさしでなく、縦横ある象限図だったからかな? と思います。
 ごぞんじ象限図。中3か高1の数学で、習いませんでしたか? 十字かいて、真ん中が原点で、右上が(+,+)左上が(-,+)左下が(-,-)右下が(+,-)のアレです。
 これは単純に言えば、ふたつのものさしをふたつにしただけです。縦と横に。でもそうすることで、ひとつのものさしじゃ見落とすものを、見逃さないんですよ。
 たとえば……というのも難しいですね。
 ものさしが増えただけなので、言ってしまえば、ひとつのものさしでも、両面を使えば出来るんですよ。たとえば、表はcmを計って、裏はgを計るようなものさし。あるいは、一度目はmを計って二度目にはkalを計るようなものさしを。
 ただそれでも、ふたつの単位で計ったときに、どのような「釣り合い」になるか、2つの数字だけでは、全体像としての位置が現れないんですよね。
 あ、ものさしの悪しき点は、それが長さを計るものだからですね。長さ以外のイメージが出来ないんですよ。棒グラフ的な。
 その点象限図だと、目標は4つのエリアのどれかに置かれ、座標に線を引こうとすれば、上からであったり下からであったり、曲線であったり円であったり、微分して面積を求めたり、色々あります。単位がないから、どのような単位で計り直すこともできます。
 イメージしやすい、気がしますね。人間、ひとつ下の次元までならよく認識できますから、直線で考えるより、平面で考える方が自然にも思えてきますね。
 立方体で考えれば切り分けることもできるのでしょうが、六角錐がどんな形をしているのかもイマイチつかめません。僕には。
 もちろん、象限図に書くことは自分の頭の中のデフォルメにすぎないので、デフォルメのものでなく、生のものを生のまま触れる人の方が自然なのでしょう。
 エミネムさんの言う「外へ出ろ 技術なんて後からでもついてくる 自転車に乗るみたいにな 世界には素晴らしいものがたくさんあるんだ 絵だけ見て描いてかちゃ劣化コピーになっちまうぜ」は本当に正鵠を得た言葉と思います。絵だけの話でなくもっと広いトコで。

 象限図も結局は数値化・順位付けですので、数値化・順位付けをする「副作用」を受けているに違いありません。けれども、(2,4)(-1,7)を較べて、どちらがより勝っているかと思った時に、「ある軸ではAが勝りある軸ではBが勝る」としか言えず、「結果として、結果はそうとしかいえない」「違う軸で比べればCが勝りうる」という余地を残す、暫定的な結果しか確定しないので、ものさしが凝り固まりにくい、そう思います。「原点」という、鬼みたいな言霊もつ点も付随しますしね。
 人間、フィルターを持ちがちだけれども、象限図なら濁りにくいよーと言いたいのです。少なくとも、背骨みたいなものさしよりは。


 龍頭巻き上げて(保留)
 先の先のリューズ巻き上げて並べたジンクスを無意識に繰り返し青い水飲み干しているのはトクマルシューゴですが、それは置いといて。
 保留。留保。このふたつは意味が微妙に違ってて、Yahoo知恵袋でも、僕の持っていたニュアンスとおんなしでした。保留はとどめること、留保はとどめた状態を保つこととのこと。どちらでもかまわないのですが、ゴロがよいので保留を用います。留保は白い馬でしょう。
 さて、保留。なにかを保留することは、なにかの解決を先延ばしするとも言えますし、なにかの答えを探し続けることとも言えますし、なにかの関係をゆるやかにつなぐこととも言えます。なにを保留するのでしょうかと言ったら、これまでの幾つかの話の続きで、「意識」についてです。
 数直線の左側と右側に点があって、そのちょうど中間くらいにも点があって、真ん中の点に、より近い点はどっち? という問いがあったとします。それをものさしで計るあるいは目盛りを数えるあるいは指の太さで計ることで、答えが分かるでしょう。
 しかし、平面的なものさしでなく、私たちは三次元人ですから、奥行きがあり、その点にも奥行きがあったらどうしましょう。左側と中央の点は手前に、右側の点がはるか遠くにあり、小さい点と思っていたものが星ほども遠く大きいものであれば、答えも、景色も変わります。そして、最初に出された、より近い点はどれ? という問いは木っ端微塵に砕けてしまいます。「右遠すぎやろ」と。しかし実は、左側の点は凄く手前にあって、めっちゃくっちゃちっちゃかったらどうしましょう。真ん中の点も、実は生きていて、5分もするところころと転がるとしたら、もう計るどころの話ではありません。
 という風に、まあ、対象や状況が、時間によって変わる。見えるものが変わる。正体が分かる。そのような観測ができるのは、多角な見方をすること、時間を置いたことによってです。ひとつのものさしとひとつの見方では、見る対象の正体を、取り違えることがありがちです。
 もし、自分の心を計るものがひとつのものさし、ひとつのザルでしかなかったのなら、心は増減するだけのものになってしまいます。さまざまな網目と、色合いと、温度とを、計れるようにしたほうがよいでしょう。
 けれど濾す前の混沌のまま掬い上げるのが、真に「心そのものに触れる」と言えるのでしょう。清酒だけが日本酒ではありませんから。


2017/7/30 日 金字塔の聞き違え

 バイオフィードバックの話は終わり。
 中村一義の歌詞を読んでないので、初めて見てみようと思います。で、あの人、何言っているかわからないので100個くらい聞き違えてそう(笑)。
 まずは1stの金字塔から。括弧内が聞き間違いの歌詞です。

『犬と猫』
町を背に(待ち合わせに)
同情で群れなして否で通す(同情で乗り出して来てどうする)
奴は言う こう あぁ ていうのう もう けっこう!(奴は行こう 宛名の??ご結婚)
死ぬとどう?(真骨頂)
得た知恵(いざ自演で)
裂いた部屋(サイドヘアー)
伝統ノー(程度の)
ボス落とせ(並ばせたぜ)
同じようなもんかねぇ(同じようなもん買って)

『街の灯』
もうすぐ(まっすぐ)
最近、偶然に(土手に)or(のテレビ)
終身刑(終止形)
もろい(物言い)
同じもの、欲しいくせに(同じ、物欲しいくせに)聞き違え?
上空(ジョーク)
群れに(並びが)
そいつを脅す(サイズを落とす)

『天才とは』
世紀も末なのに(駅も過ぎたのに)
ウッソー!?イヤ?(そういや)

『魔法を信じ続けるかい?』
もう、ずいぶん古い魔法を(もうすぐ古い魔法を)
こっから出んだ(分かってんだ)
熱上げたくらい(奴らが企む)
同情の群れ(喉の震え)
友人(意地)
うん、そんなもんさ(嘘なもんさ)
充電していただけ(自分知っていただけ)
僕、大好き(物体好き)
いいバカ連れ(今訪ね)
音(外)
心の暇で(心の日まで)
自分自身を支える(自分自身の刺さる)

『ここにいる』
まだ大きな(笑おうおっきな)
みんなを待ってる(みんな想ってる)
ただの平々凡々な(ただのへぇもうおもんな)
カッコ(過去)
トンネルを抜けると、今日は(トンネルを抜ける東京は)
平々坦々(大胆)

『いっせーのせっ!』
何かを見通していたんだ(なにかを言おうとしたんだ)
こつこつ型で(口数がダークネス)
たかったから(馬鹿だから)

『謎』
病んだ(やった)
バス(バースディ)
人のことの考えず……られず…進む(人の言葉考えず、とりあえず、進む)
言語(言動)
ゴールを旋回し、大手振り(どれも世界史を手に)
出発地点へ戻る(出発しては戻る)

『いつか』
そんなもんは(そのまま)

『永遠なるもの』
道…… 平行線(ビーチのパパッパパパッパ your self)
茶化(着火)
予報によりゃ言う奴が(両方にいるような奴が)
そうか…落ちるそうだ(空が落ちるそうだ)
あなたが言う…「なんかに飼われていた」(あなたがゆるやかに飼われていた)
いい。まだ(未だ)
そうだ。スヌーピー大好きなやつが、重タール漬けガイでも(騒がしく??日々が大好きなやつが??住宅付けが用意??)
幼稚な気持ち(余地なき気持ち)


 ……あの、別にウケ狙いではないので。そこは誤解なきよう。「状況がサイドヘアーで」はちょっとおかしいなって思いながら聞いてますからね? たぶんカラオケとかでこんな風に歌うと逆になにか掴めるかもしれませんよ?


2017/8/5 土 サイクルの感覚

 二泊三日の日光無目的自転車旅行(阿房自転車)のときに、迷ってガタガタ農道をギコギコ自転車漕いでた。だだっ広い空と静かな住宅街があるけれど海はない。埼玉には道と家と農地(みち・うち・のうち)しかない。ペダルをとめて、惰性でほんの少し進んで、自転車は止まってしまい、一周だけ回すと、ほんっっっっっっの少しだけ進んで、またギコギコ漕ぎ出したときに、ふっと、「ああ、自分が漕いでいるから進んでいるのだなあ」と詠嘆したことを、ふっと思い出した。
 ガタガタ農地だから、漕いでもあまり進まない。迷っているから、行路に自信がなく、足の力も弱まっていたのかもしれない。かのようなことを詠嘆させるにおあつらえ向きに思えるシチュやんけ。止まって、止まり続けていてもなんにもならないことはよく分かっているから、目的地へ向かうしかない。目的地と言っても、家から3時間くらいの、迷わなければ1時間くらいで行ける場所で、まだ引き返せるかなとも思った。思ったけれど今はよく分からない凸凹道だから「引き返すにしても、少なくとも舗装路へ」と思って漕いだ。舗装路に出てから、結局北に漕いだ。たいらな道は抵抗も少なく、スムースに漕ぎながら、「勝手に進んでいるようで、自分で漕いでるんだよなあ」と思った。あたりまえだ。
 車がびゅんびゅん通り過ぎ、向かいから走ってくる人はいるが、自分を追い抜くジョギング・マンはいない。それは不思議ではない。

 自転車に乗っていると、これはあまり「自転車的」でないと思うのだけど、「電車」に乗っているような感じがする、自分の力で動いていない感じ。自分自身が自転車の一部になって、すすいーっと行く感じ。ママチャリだからけっこうどっしり腰をおろしているだろうけど。
 僕には実は、バイクの方が「自分で動かしている、自分で選んでいる」という感覚がある。車だと、あまりない。通行手段として使われているのはどれも同じだから、なぜだか分からない。「風になって」と言えるほど、速度は出していないつもりだけど。

 平坦な道であれば自転車は漕ぎはじめるときが一番力を使うけれど、進んでいるときに漕ぐのは、すすーっと行く。「スムースに"行く"感覚」は次に"来る"、そういうことに慣れる。


2017/8/15 火 水(鏡)

 主にバー的な場所で。人が1対1で話すと鏡のように、何人もで話すと水の混じりのように思える。濁りがなければ、鏡は無限にお互いを映し、その奥深さは、決して一枚の鏡には見えない図を作る。ここには、筋はあっても、流れはない。そもそも時間さえないよな気がする。(モルモン者は、向かい合わせの大きな鏡の間で結婚を誓うらしい。「死んでも永久に一緒」を示すビジュアルが、無限にいる二人の姿だとかなんとか)
 複数の場合は、もうこれは全然勝手が違ってて。目は2つあるけれど、見るのは一方向だから、自然、話者の目が向かない場所がある。左右の目を別々に向ける技術があれば別だけど、三方向に人がいれば、同じく目の届かない位置がある。見ない場所には目もくれない人と、平等のように見る人がいる。見えない場所からちゃちゃを入れれば、本当に「目に入ってなかった」という人もいるし、まるでこちらに向けて話していたかのように呼応する人もいる。
 ○○さんが××さんに話して、××さんが話を聞いていなさげな時に、こちらを向いて話しを続ける人は「話をしたい人」で、少し黙る人は「××さんに話をしたい人」あるいは「この話を聞いてもらいたい人」かと思う。ちゃちゃを入れて、「こっちも一応話を聞いていますよ」と知らせることもある。それをどう判断するかは相手次第。
 目の向きや、声の向き(大きさ、トーン)、動き、話題も微笑みも、いつでも作用しあってる。譜面に書き起こせない要素だから、指揮者は大変だろう。


2017/8/19 土 感情がなくて悲しい

 笑ったり怒ったり、というのはします。だから感情はあるんです。けれど自分の感情を「蘇らせる」には、結構な努力が必要です。めったにしません。思い出せる限り、ここ5年で2回ですね。
 Jo氏にバカにされてあと「僕は怒ったのか? 彼が馬鹿にしたのは僕にとって大切なものだったのか?」と自問した時と、Enさんと最後の会話をしたあとに「共有した時間の中になにがあったのか」と考えた時、くらいですね、思い付くのは。
 萩尾望都の「アメリカン・パイ」を読んだ時と、ミリオンアーサーの「破壊こそが生きがい」を聴いた時に、思いがけず泣いて、なぜ泣いたのか考えたことはあるんですけど、これは自分の心ではなくその作品に対して思い巡らせたので、自分の心を掬うのとは、ちょっと違います。

 けれど、どうでしょう。自分の心に関しても、何かの作品を考察するように、自分の心から分かれてはじめて見えるよな気がします。
 僕はいつも感情を「顧み」ます。現在から過去へ。一旦時間を置いて、改めて触れる。その手順では、自分の心から切り離されたあとでしか、自分の心を感じられないように思えます。というか、自分の心でなくなって初めて感情が分かる、というか。今の自分から過去の自分へ。今の自分に「残留」するキャッシュのような感じ。内部ストレージは全部不明なシステムで、「キャッシュを削除する」が出来る澱でしかないような感じ。いつの間にか集められて、「ゴミ箱を空にする」前にちょっと見ているかのような感じ。
 そのようにしか、捉えることが出来ません。原因はたぶん自分の幼児性でしょう。自他がちゃんと分けられないのは、自分がなにかよく分かってないから、みたいな。自意識と自己評価が一致してないから、ぶれがあって、自分が揺らいでる。自分が確立してないから、他者の領域に足を突っ込んだり、自分の領域で手を引っ込めたりしてる。ような感じ。
 そのようにしか捉えることが出来ません。今は。他の、「ちゃんとした頭のありかた」とか「やわらかい育みのありかた」とか、そういうものがあるのでしょうし、いずれは自分の頭のなかもどのようにか収まる、といいな、と。死ぬまでどうにもならず、というのもありそうですが。


2017/8/27 日 俺は南へ行くだろう

 引っ越したり、あらゆる契約を無視したり、縁を切ったり、人生をやり直したり辞めたいような気持ちです。そうしない代わりに、浅川マキを聴いているような最近です。


2017/8/30 水 1回目の誤解

 名バンド・筋肉少女帯の、たぶんわりとマイナーな曲「スラッシュ禅問答」に、次のような一節があります。

「人生辛けりゃ俳句を読めよ 言葉が足りなきゃ短歌があるぜ」

 この曲を初めて聴いたのはたしか中1のころで、当時の僕は、短歌と川柳と俳句と百人一首とかるたとメンコと五七五とパ↑ソコンとバ→ビロンの違いをよく知りませんでした。
 なので上記の歌詞を「人生辛けりゃ俳句を読め。俳句を読めるほどの語彙がないのならば、俳句より短いもの――短歌を読め」と解釈していました。
 当然、国語の時間で短歌を習った時、「短歌って短くないやん! 俳句より長い!」と驚きました。倍くらい長い。
 今では「人生辛けりゃ俳句を読め。俳句には収まらないほどの辛さがあるのならば、俳句より長いもの――短歌を読め」と解釈してます。
 これとは違う読み方があれば、ぜひ教えてください。

 それで。
 短歌の形式を知った僕はひどくショックをうけました。自分が誤解することがあるんだ、と横柄にも思いました。というより、そのとき初めて「誤解」を理解した感じです。天地がひっくり返るような――というのはおおげさですが、地がちょっとふわふわするくらいの衝撃はありましたし、そのふわふわは今でも続いています。

 「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」「それはあなたの感想ですよね」みたいな気持ちが自分の頭には根強いです。
 だからこそ、なにかを「信じる」とか「願う」とか「希望する」とかそういうものに共通する強い力に、特別な思いがあります。「イイネ!」とか「いーの?」とか言いたくなります。きっと、それはとてもいいのでしょうけれど。
 

 誤解をした僕に足りなかったことは、真実かどうかを確かめる手間かなと思います。あと知恵。あと常識。(今も足りてないか)。
 信じたいためにすることと言ったら、そりゃあ…………ねぇ?

 意味の分からない言葉も分かっている言葉も、調べてみたらぜんぜんカンタベリーしない忖度がシンギュラリティ・インスタジェニックするかも知れませんね。R.I.P。


2017/8/31 木 うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお、謝意

 深夜のコンビニで働いています。廃棄を持ち帰る同僚がいます。
 います、どころか、全員です。全員泥棒です。
「うわー。うわー、犯罪やんけ。うわー犯罪やんけー。えんがちょ」と思い、そう言うのですが、深夜のアルバイターは全員廃棄を持ち帰ってます。彼らがいなくなっては困るので、オーナーに告げ口しませんが、せめて僕の目につかないようにしてほしいなと思っています。

 (コンビニ廃棄の持ち去りについては、かつて宮内春樹さんが面白いことを言ってましたが、要点が違うので割愛。※下記)

 廃棄と言えども、それを勝手に持ち去るのは犯罪です。
 廃棄を取るのも売り場の商品を盗むのも同じだと僕は認識しているので、同僚には「やってることおんなしなんだから売り場のもの万引けばいいのに」と教唆しています。実際には、売値か原価かで賠償金が変わるようですが。
 まあ、いずれにせよ窃盗。

 窃盗をしている輩が、同僚以外にもいました。ダンボールの回収屋です。
 毎朝五時に来て、ダンボールを積む。ダンボールの下に廃棄を隠して積む。監視カメラの死角で積む。積む積む。
 それを今日初めて気付きました。一年も働いてるのに、今日。今朝。
 怒りのあまり、廃棄にヒ素を入れちまおうかと思いましたが、やめました。こっちが捕まっちゃう。かわりに「謝意を見せてくれないかなという気持ち」が湧きました。今日から謝意ボーイと呼んでください。

 回収屋が、僕に謝意を見せたくなるには……。
 と、考えてみると段取りが難しい。ただ単に「盗んでますよね」というだけでは、言い逃れられたり、開き直られたり、回収をやめるだけで済んじまいそうです。
 謝意を受け取るには5W1H(willcom)を考える必要があります。綿密に。
 回収屋は一家経営の小さな業者なので、相手方の上層部に謝意を見せてもらうことはできません。仕事を失うぞという事実を連ねて謝意を引き出すことも出来ません。年寄りですし、将来を失うぞというのも謝意を引き出しにくく思えます。「老後は檻の中で過ごすのかな」くらいでしょうか。
 そもそも、盗んでいる様子が、絶妙にカメラに映っていないんですよね。絶妙ではなく、巧妙に、と言うべきでしょうか。
 ゴミ捨て場はプレハブなので、プレハブ内の角にでもスマホで撮影できるでしょう。一度くらいは犯行の図を抑えておきたいです。定時に現れるのでタイミングよく仕掛けるのは簡単です。
 打ち明け方は、盗んでいるところへ行くのが一番でしょうか。打ち明けた時、相手が短絡的思考をして暴行を加えてくる可能性もあります。もし暴行されたら、より一層の謝意を必要とするでしょう。録画は必須でしょうから、胸ポケットにスマホを忍ばせておきます。とうぜんこちらの音声も記録されるので、脅迫にならないよう気を使うべきですね。「刑務所行きたくないなら金寄越せ恥知らずの犯罪者そして死ね」みたいなことは絶対に言いません。


 犯罪現場で犯罪を指摘するところまではよくイメージでき、この上ないと思えるのですが、僕個人への謝意を促す言葉がいまいち思いつかないんですよね。確信がない。
 向こうが言外の意図を読み取ってくれなかったり、たかが廃棄でオオゴトにはならないだろうとタカをくくってたりしそうです。
 だからといってオーナーや警察に連絡すれば、「僕個人に謝意を見せる機会」を回収屋から永遠に奪ってしまうことになります。それは悲しい。申し訳ないと思うのなら謝意を見せて欲しい。僕は許してあげたい慈悲の気持ちを持っています。チャンスを与えたいのです。

 ひとまずはいい機会を――全てが上手く回るような発想と確信を待つことにします。おそらく回収屋は、今後も窃盗を続けるでしょうし。
 


 オーナーは、廃棄の持ち去りに「厳しい態度で挑む」と公言しています。
「今は昔。警官志望の学生が廃棄を持ち去っていたから前科1つ加えてやった。聖なる騎士を埋めてやった。これであいつの将来はパー。あんなパー野郎が警官なんてちゃんちゃらおかしい」
 と言っていました。
 そのように、犯罪者に対して常に強気な対応をするのであれば、追い風になる――かと思いましたが、深夜の連中が廃棄を持っていかないように脅しているだけにも思えます。
 その上、実際に豚箱に行くかどうかってのは、謝意を見せるタイミングの後の話なので、オーナーが実際に行動するかどうかはまったく関係ありませんでした。ざんねん。

 回収屋が僕個人に謝意を見せ→謝意とは別に償いのチャンスを与え→回収屋が店に対して損害賠償金を払い→オーナーが僕個人に感謝の念を示す、という流れが一番理想的ですなのですが……。
 まとまった謝意を受け取ったら、しばらくは楽に過ごせるかと思います。ちょうどいい機会、引っ越しの後押しにもなるかも知れませんし。

 あー! 謝意が欲しい! 赦しを施したい気持ちでいっぱい! 自分が善人だと初めて気付いた!!



※以下の一連の文章は、イベントバーエデンの店長・宮内春樹さんを師とする宗教組織「ダールルハック」による定期会合報告ツイートです。2015/8/7。(沖縄出身の学生とは僕のことです)

「7日の金曜日も東長崎にて宮内師のもとで礼拝の時を持ち、師の語る叡智と示唆に富んだ言葉に耳を傾けました。今回も初参加者がおりました。師のツイッターを読み興味を持ったという沖縄出身の学生は、どのツイートが特に印象に残っているかという、師の質問に対して、次のツイートをあげました。」

「空き家があるのにホームレスがいるのは不合理だ、ご飯が廃棄されるのに餓死する人がいるのは不合理だ、よく見るしよくわかる言説。だが、不合理だからあげちゃえばいいというのは飛躍。税金配分者の発想。権力的発想。奴隷を使う人間の発想。労働者の発想でない。」

「学生はコンビニでバイトをしていて、毎回多くの食品を廃棄するから考えさせられる内容だったと言いました。師は棄てられるコンビニの弁当にも誰も住んでいない家にも、それを作った労働者の「怨念」がこもっていて、その意志と無関係に第三者が用途を勝手に決めることに対して警鐘を鳴らされました。」

「最近、頻繁に分配や再配分という言葉が使われます。特に左派を自称する人が福祉や公共政策を語る上で使用するケースが多く見受けられます。一聞すると公正で平等な発想に感じます。しかし注意せねばなりません。他人が生産した富や物の使い道を自分が決めるという発想、これこそ搾取の発想なのです。」

「今、築地で商売している人の思いと正反対に築地移転計画が進められています。まさにこれも権力者の横暴です。築地のことは自らの手で魚を捕り捌いてきた労働者にしか決める権利はないとも師は言いました。また、人が亡くなると、事件性がなくとも遺体を国が持っていってしまうことに怒りを述べました」

「どうせ死んだのだから、そのまま埋めるよりも、検査解剖した方が医療の発展にも繋がるだろうという、汚いから築地を移転しようと同様、権力者の傲慢な発想だと厳しく批判しました。そして身近な人が亡くなったら絶対に遺体を渡さず、司法(飽くまで便宜的に)に訴えて取り戻すよう強く勧められました。」

「今回、師がお話しされたことで一貫していることは、国や権力者が自らは何も生産せず、労働者の生産物や税金、しまいにはその身体までもの使い道を好き勝手に決めてしまうことの不当性、暴力性です。私たちはこの様な泥棒国家にいかに対抗して生きてゆけば良いのでしょうか。師は教え示します。」

「旧来の「左翼」の様にどこかで会議を開き議論して、街頭に立ちデモする事がその対抗策解決策ではない。身内の事業と遺産を継承し、信頼できる仲間たちと身を寄り添って、信仰=生活共同体の確立を進める事が私たち権力を持ち得ぬ者、名も無き労働者の正しい唯一の生存戦略であると。アッラーフアクバル」

「さらに追加的にいうなれば、そのような横暴は国家権力や権力者が・・・という類のものではなく、あなたの頭、手足、体に潜んでいる、ということです。」


 要は、知らぬ間に上から目線になりがちなので注意、です。
 コンビニ廃棄を「どうせ捨てるのだから」と持って帰ることが上から目線になっている、という認識がなかったので、面白かったのです。

 ちなみに僕の中で、ジャッキーさんと宮内春樹さんは似ています。
 逆に似ていない部分はどこかとジャッキーさんに問うたら、いわく、「遠心的か求心的か」と。なるほど。
 イベントバーエデンは求心力が強いので客がバンバン来て、夜学バーは遠心力が強いので客がぜんぜん来ないのでしょうね……(苦笑)


2017/9/1 金 水形明月を読む(その1/プロフィール)

 
 水形明月あるいは水形玲という作家をご存知でしょうか?
 ご存知あればぜひ連絡ください。 ぜひ。自分以外、彼の小説を知るものがいないので、寂しいです。
 彼の小説は(おそらく)ネット上でしか読むことが出来ません。そのうえ、彼のホームページは現在更新休止中、かつて20作ほどありましたが、現在公開されている作品はひとつだけです。
 彼の作品に、僕が惹かれる理由はひとつ。

「作者の願望がだだ漏れに見え、作者の心情を推察したくなる。」

 褒められた読者ではありません。けれど、これ以上に楽しい読み方が出来ません。もし可能であるというのなら、ぜひご連絡ください。

 今回は、「僕が想像する最強の水形明月」を紹介しようと思います。
 と、その前に、彼のプロフィール紹介から。



●プロフィール

水形玲(みなかた れい)
本名 高坂健三(たかさかけんぞう)
いわゆる自由業ですね。散文詩人ですから……
筆名 水形玲(みなかた れい)
フェイスブック https://www.facebook.com/kenzo.takasaka
水形玲のページより)


 現在の水形のHPから引用しました。
 本人がHPに載せていない情報としては、1973/12/5生まれ(43歳)。小太りイケメンだと言われる)。処女が好き

 自由業というのは作家業のことで、つまり執筆のことでしょうけれど、作品を売買してはいないので、収入にはなっていません。実際の収入は生活保護です
 生活保護がもらえる理由は、統合失調症だからです。
 統合失調症になる前は、強迫性障害である潔癖症でした。
 発症の前後に明治大学の文学科フランス文学専攻を中退しています。
 フランス語の試験は、水形には負担だったようです。
 また、高校は男子高校だったようで、その高校を志願させた両親と担任の教師に対するうらみつらみを何度も呟いています。
 自分はもっと賢く、望まない進路を不当に強制された、とのことです。
 未だに両親と教師を恨んでいます。

 これらの経歴を総合すると……。
「『早熟は未熟に終わる』タイプ。幼少期、他者より賢いことで、なんらかの優越感を持つ。他者を見下す傾向あり。なにかの失敗に直面すると、賢い自分に否があるはずはないと思い、他者のせいにする。他者のせいに出来ない状況においてすら、自分の愚かさを正視できない。自分の愚かさをごまかすため、なにかしらのスケープゴートを作りがち。水形の場合は精神病として現れたと思われる。『両親・中学教師・試験・幻聴』を敵とすることで、賢い自分像を保持し続け、今に至る」
 と、想像します。 

 そのような人間が、新人賞に投稿します。他者は全て下ですので、自己評価は最高。
 本人的には受賞して当然なのですが一次落ちします。
 そして大衆は芸術を解さない、(本来は評価されるべきなのに目の曇った愚鈍な大衆である)下読みが悪いと考えます。
 なにかしら努力しようと思っても、「間違っているのは向こうだ」という意識がある限り、ブレーキがかかってしまうでしょう。というより、アクセルを踏めないのでしょう。

 崖に向かって走り出すのは危険でしょう?

 結局「いまのままでいい」となります。
 彼は「いま」を「高みで静止している状態」と認識ていますが、僕にして見れば、どん底の闇からさらなる闇へと落ちている状態です。どんどんどん底の深みに。手遅れなくらいに。

「止まっているとどんどん暗くなっている感覚」は、すごーく、気分悪いですよ。
 反面教師としたいです(言うだけ)。

 水形も手遅れだということは分かっています。学生のうちにSEXする機会がなかった(過去)、自分が作家になるのは無理(未来)、と認識することもあります。
 しかし自分に甘く、将来はどうなるか分からないので、作家になって18歳の愛人が出来るという未来を否定しません。
 極めて大逆転な夢。
 その夢は決して消えることがないので、南にある北極星のように、水形を見当違いのとこへ向かわせるでしょう。


●水形の甘さ

 「自分の価値」と「自身の将来像」は、互いに連動して推移するのではないのでしょうか。
 価値を高めて将来像を明るいものとする人と、
 将来像を輝かせて自分が明かりに近づこうとする人。
 前者がボトムアップ、後者がトップダウン方式の「未来への舵取り」に思えます。

 そして、未来の選び方が2パターンあるのなら、間違え方も2パターンありそうです。
 自分の価値が高く将来はますます明るい人と、
 自分の価値が低く将来はますます暗い人。
 トップアップとボトムダウン。これは典型的なポジティブとネガティヴですね。

 さて。
 水形がどのような精神状態か考えます。

 彼は、
 自分には芸術の神がついている、
 芸術家の才能がある、
 精神病は作家の職業病だから自分は作家同然、
 という正の思いがあります。だから自己評価は高いように思えます。

 しかし一方で、
 芸術の神は厳しい、
 芸術家は大衆に否定される、
 作家は貧しく不幸になりがち、
 という負の思いもあります。だから自己評価は低くも思えます。

 将来も同じように、愛人を作る未来を見たり、これまで付き合った経験がないのだからこれからもないだろうという諦めがあります。
 この落差は、自己評価と他者評価の落差と同等のものに思えます。
 才能があるから大作家になるだろうという気持ちと、ふつーに考えて万年一次落ちな自分が無理やろという気持ち。
 水形は自己と、地続きの将来を決めかねています。

 「うどんとそばのどちらかを選んでいるものは、どちらも食べていない」という言葉があります。それをどっちかに決めるのが政治だと橋爪大三郎は言っていました。
 この二者択一を選べず空腹することを、ビュリダンのロバと言います。これはONE OUTSで知りました。
 継続は力なりと言いますが、そもそも何かをすること自体が物凄い力です。進化そのものが、なんかやってたら色々形作っていた、ということですし。

 それで。
 決めかねているロバの目の前、口元に、自分にしか見えない架空の存在「うどんそば」があらわれたら、どうでしょう。
 おそらく、それを食べるでしょう。必死に、遮二無二。
 選べば、先にはうどんもそばがあります。選ばなければ、空腹があります。
 しかし、目の前に「うどんそば」があるのなら、うどんもそばも食べられます。
 なにかを食べれば空腹は解消されるはずですけれど、「うどんそば」は架空の存在です。

 うどんとそばを食べて満腹なはずなのに、
 うどんもそばも食べておらず空腹なロバがいたとして、
 そのロバが口をきいて、
 そのうえ小説を書いて、
 あまつさえツイッターなんかやってるのなら、すごく面白くないですか?


2017/9/3 日 水形明月を読む(その3/『青春の終わり』から想像する作者像)

 さて。
 ようやく本題に入れます。僕が書きたかったのは「作者の心情を推察」することです。

「あー、この人こんな風に考えてるんだなー」
「あー、過去にこんなことがあったんだなー」

 と想像を膨らませるのが、醍醐味です。
 もちろん想像の域を出ませんので、あくまで僕なりの解釈です。
 作者像を想像してしまう、というのは、文章に豊潤ななにか凄まじい力があるのでしょうから、本当に、凄い才能を持っているのだと思います(だから名誉毀損で訴えないでください)。
 では。<>は引用です。

●主人公の甘え

<僕は親が一日あたり五千円支給してくれることに甘え、神経症的放浪をした>

 主人公は六日間ホームレス的生活を送り、日曜になると実家に帰り、小遣いを貰う。その金額が毎週三万五千円。日割りで五千円。ひと月だと十五万。
 この十五万という数字は、奇しくも、作者の受給する生活保護と同じです。
 生活保護を、親の小遣いと同じような感覚で貰っているのかな、と想像します。
 どのような感覚かというと、天から降ってくるような感じ、あぶく銭でしょう。
 主人公は、親の小遣いを、食料や酒代にしか使いません。家賃にもしません。

 そして、親の小遣いを断るということもしません。甘えてます。


●謎の確信

<風呂から上がって冷蔵庫のプリンの封を開けたはずみに、それを落としてしまった。中身は床にぶちまけられ、容器に残った食べられる分はごくわずかだった。僕はそのわずかなプリンを食べ、容器をゴミ箱に捨てた。
 悪魔だ。
 いつか僕を邪魔することで、包丁で指を切らせたこともあった。何かにつけて動作を失敗させるのだ。>

 いや、いや、いや。悪魔なの? 悪魔でいーの? ただのうっかり屋さんにしか見えないけど、悪魔でいーの?
 プリンを落とすことは常識(一般人の実感する現実)にもあり得ますけど、悪魔と言われれば、常識の外です。
 もちろん小説ですから、常識の外を書くことはあります。自分の現実が狭いもの・間違っていることもあります。この現実に悪魔がいて、だれかにひっそりととりついている可能性もあります。
 けれど、悪魔の存在なんか全く分からない読者がほとんどでしょうから、ここでは、悪魔についてなにがしかの知識を与えて欲しいところです。
 たとえば、いつ頃から自分にとりついたのかとか、悪魔の姿や思惑とか、なんでそれが悪魔だと分かるのかとか、悪魔は他の人にもとりついているのかとか。

 悪魔がいるのなら、神もいます。


<家に着くと、僕は、いままで使っていた財布をやめて、机の引き出しにしまった。そして近所のスーパーに新しい財布を買いに行った。それは合皮の財布で、五千九百八十円した。小銭を入れるところと札を入れるところ、そしてカード類を入れるところがあり、ポケットに収まるコンパクトなサイズだった。
 僕は神様がいると思い、強迫的な努力や、人間の浅知恵による工夫を、その日からやめることした。神様にすべてお任せするのだ。強迫性は何も生まない。>

 いや、だから、なんで神がいると思ったのか。神がいたとて、なんでそうだと思うのか。なんで財布を買った直後にそう思えるのか。
 よく有神論者が「科学を知るほど、地球が生まれ人間が生まれたことが不思議になる。だから神はいる」のようなことを言いますが、ポケットに収まるコンパクトな財布を見て神を確信するのは、ちょっと凄いと思います。ふつう、財布で神を確信しませんから。
 財布で神を確信するのは、僕から見て、劇的なことなので、もう少し文章多いと嬉しいな、と思います。

<神が僕に憑いているといっても、それは他人のために立ちはたらくことが目的だ。>
<何かが憑いたようになって小説を書いていく。>

 主人公が、自分についたのが悪魔だとか神だとか何かだとか言っているので、どれも同じものがついているのかな、あるいは、なにもついていないのについているとか言っているのかな、と想像してしまいます。


●ナチュラルな迷惑行為

<駅前のスーパーは二十四時間営業なので、こんな早朝でも惣菜や弁当のたぐいを買うことができる。>
<駅前広場の近くにあるコンビニのくずかごにゴミを捨て、僕は散歩を始めた。>

 スーパーで買ったものを、コンビニで捨てる行為を、なんの疑問なくやる。
 コンビニ店員として、ふつーに腹立つ。ネットで炎上して欲しい。
(コンビニのことを、二十四時間のスーパーと呼んでいるのかもしれない。そうだったら申し訳ない)
 

●自分はイケメンとは思わないが客観的にはイケメン

<僕は結構ハンサムとか美男とか言われるが、なかなかそれを信じることができない。多分、太っているせいだろう。以前やせたとき、女から「かっこよくなったねえ!」と言われたことがある。やせるといっそう美男であるらしい。でも僕はそれが信じられない。そしてやせることは困難なことである。>
<僕は周りの人物から「細野君ってハンサムね」などと言われるようになって、ようやく自分が「イケメン」だということに気づいた。  僕の「本来そうであったはずの人生」は、イケメンの僕が女を次々抱いていく、そういう人生だったはずだ。  現実には、ただ自分が冴えない男だと錯覚していたのであり、長い年月が過ぎてしまった今では、時間を取り戻すことはできない。>
<そうか。僕はやっぱりイケメンなんだ。>

 「自分ではイケメンだとは思わないがよくイケメンだと言われるので客観的にはイケメンだ」という思考は、精神障害の前段階だと思います。
 ググってもなにもヒットしないが不思議です。

 自分がどんな存在であるかを自分で断定できないのは、アイデンティティが希薄に思えます。
 他人の評価を自分の評価とするのは、自分の判断に自信がないためでしょう。

 他者数人からイケメンと言われることは、客観と呼べるほどにはイケメンだとは言えません。
 百人会って九九人に言われたならともかく、人生の中で何回かイケメンと言われたから信じるのは、そそっかしいです。「イケメンだと言われなかった回数」を考えると、むしろ、客観的にはイケメンではないのでは?


●一太郎ユーザー

<僕は翌日、喫茶店からの帰りにワープロソフトの一太郎を買ってきて、パソコンにインストールした。覚えるとなかなか使い勝手がよかった。>

 一太郎で小説を書いているようです。



 これまでを総括すると、「甘ったれた非常識な判断から迷惑行為を行う勘違い野郎(一太郎ユーザー)」という作者像が浮かびますね。
 もちろんこれは僕が勝手に想像した非常識な勘違いだと思いますが……。


2017/9/2 土 水形明月を読む(その2/『青春の終わり』のあらすじ)

 
 水形の小説は20ほど読んでいますが、現在公開されているのは『青春の終わり』のみです。執筆時期は分かりませんが、公開は2014年の8月頃のようです。
 この小説は一万五千文字弱の短編小説で、一~六章と終章に章分けされています。
 一人称小説で、作中の年代はよく分かっていません。
 作者のツイートによると「私小説のような感じ」「僕のようなのが古典文学、純文学。ライトノベルやエンタメではない」とのことです。

●あらすじ

一章
 不潔恐怖症と無気力によって大学中退をした細野聡志(23)は、働きもせず無為な生活を送っていた。親から月15万円ほど貰い、浮浪者のようにふらふらした生活を送る。
 自分は不幸であるという考えに取り憑かれている。

二章
 コロッケと弁当とガムと発泡酒を買い、酒屋でカクテルとワインを買って飲む
 青春と呼ばれるような恋愛や、なにがしかの素敵な未来があると思っていたが、なさそう。誰も助けてくれる人はおらず、さみしい。
 自分には悪魔がついていて、つらい生活を余儀なくされている。

三章
 父の紹介により、父の友人の喫茶店でウェイターに務める。給料は月三十万。
 喫茶店は閑散としており、ものすごく働きやすい。「そばの実の雑炊」などの個性的なメニューに惹かれたお金持ちのお客が、店長と仲良くなりたくて月五百万を与える。
 安泰な仕事を得たため、悪魔を無視できるようになる。

四章
 恋人が欲しくなった翌日、折よく(卒業以来会っていないし顔も覚えていなかったが美人の)同級生・三谷から電話があり「付き合ってください」と告白を受ける。
 三谷と職場の喫茶店で会い、三谷が自分に惚れていると、店長の言葉で気付く。しかし店長によると彼女は非処女らしいので、仲良くするのは今日だけにしようと思う。

五章
 人並みの幸せが得られず、つらい。
 三谷に「処女でない人とは付き合えない」と伝える。
 自分をイケメンだと思わないが、イケメンだとよく言われる。イケメンであれば、女を引っ掛けてもよいので、ビッチと付き合ってもいいのかと思う。
 三谷から電話があり、その日にラブホテルではないホテルでセックスする。童貞を失って後悔する。

六章
 (悪魔かなんか知らんが謎の声が聞こえるから)自分はシャーマンのようなもので、作家はシャーマンであるから、小説を書く。後日受賞。
 受賞パーティーでは誰も自分に声をかけてくれず失望する。
 三谷から連絡はない。

終章
 小説がベストセラーとなり、家を買い、処女と結婚した。
 そういう平凡な生き方が一番であり、自分は所詮、平凡な人間だとわかった。

一行でこの作品をあらわすと……
 やけに悲観的な主人公に信じがたい仕事と出会いが訪れ作家の才能まで開花させて「自分は平凡でした」で〆る無成長小説。


 物語が動くのとは別に、主人公の「思索」があるのだけど、そこはほとんど省略している。
 思索の内容は「大量生産をやめて物価があがれば(金をたくさん稼げるから?)労働は楽になる」とか「メニューが個性的であれば金持ちがめちゃくちゃ金をくれる、そこには個性と愛があり素晴らしい」とか「他の人は不真面目だから、僕も真面目さを脇へ置いておこう」とか……そういう感じです。

 物語を起承転結で分けるとどうなるだろう。

 仕事を中心に考えた場合。
 起:浮浪者のような主人公が働き出す。
 承:喫茶店で働く
 転:作家になる
 結:平凡だが幸せな生活を過ごす

 収入を中心に考えた場合。
 起:小遣い月15万
 承:バイト月30万
 転:×
 結:ベストセラー作家

 恋愛を中心に考えた場合。
 起:これまで恋人がいない
 承:恋人がいない
 転:非処女とセックス
 結:処女と結婚

 努力を中心に考えた場合。
 起:恋がしたい。働くべきだろうが働かないのもいい(努力0)
 承:父の紹介と、「本当の男」である店長と、楽な業務のため、仕事を獲得(努力0)
 転:自分に惚れている非処女とセックス(努力0)
 結:作家の才能があり富を得て家を建て処女と結婚(努力0)


 努力とか、驚きとか、なんらかのためになることが、ひとつも見当たりません。
 職業小説のような、ある業界の実情を知るような楽しみもありません。
 この小説に書かれるのは、たれ流しの想像だけです。
 友達料を月五百万与える金持ちや、愛と個性(そばの実の雑炊や銀杏入りグラタン)でそれを成し遂げている店長に、裏を感じずにはいられませんでした。売春とか薬物とか極道といった事情があるのかな、と思いましたが、なんにも触れられてない。愛と個性で友達料月五百万。それで主人公は納得するんですね。
 異常ですよ。
 この異常な喫茶店を書いた経緯を想像すると、おそらく、「あまり働かずにたくさんの給料がほしい」という考えがあると想像します。
 月一万しか売り上げない店から月三〇万の給料が与えられるわけがない
  →パトロンがいればOK
   →パトロンがいるような店ならセンスが卓越している
    →卓越したセンスの店長なら、自分の良さを分かる
 という納得の塊があるように思えます。自分のセンスのよさを店長に証明する描写はありません。あるべきだと思いますけどね。
 「凄いセンスの喫茶店で働けるほど、主人公はユニークなのか?」
 とゆーのは当然の疑問に思えますが、主人公はそんな疑問を露にも抱いていません。
 それは当然の前提なので、疑問を持たれていることなんて、気付きもしないのでしょうね。(疑問を持つ読者は、低俗に染まっているから、芸術的ですらあるこの作品をスムースに理解できない笑)


2017/9/4 月 『青春の終わり』から想像する作者像の補足/客観的イケメン

 客観的イケメンとは「自分ではイケメンだとは思わないが、他人からイケメンだと言われるので、イケメンとして扱われる」という考えをした人です。
 なにか、人間として、すごーーく重大なミスを生む、非常に危険な思考に思えるんですよね。

 しばらく書いたり消したりしてるうちに、なぜヤバイのか分かりました。
 まず、誤解から書きます。
 僕は最初、
「○○とは思わないが、客観的に○○なので、○○のように扱われるべき」
 と、
「俺は○○だから○○のように扱え!」
 を較べて、どちらが迷惑なのかとか、どちらがより愚かなのかとか考えてました。
 神のように振る舞う客とか、キャバクラのような振る舞いを要求する客とか、恋愛ストーカーをする人とか、復讐する人とか、色々想像して、どっちがどうとか。

 けれど、違うんですね。
 なにが違うって言ったら、経緯。
 どちらも「最終形態」の迷惑さなのですが、その成り立ちが違うんです。
 どちらも「勘違い迷惑野郎」であることは変わらなく、どーいう思考回路が発達しているかが違う。
「あなたの風邪はどこから?」とように、鼻に症状が出るのも喉が症状が出るのも、結果は同じ風邪なんですね。
 それで、客観的イケメンはどこから来て、どのような症状をもたらすか考えていきます。

 1つ目はよくありたいという願望です。
 これは、まあ、誰にでもあるでしょう。
 親に喜んで貰いたいとか、お金がもっと欲しいとか、痩せたいとか、頭が良くありたいとか。上昇志向は誰にでもありますし、そのままでいいんだ自堕落に生きるぞという人にも、「あ~、だれか5000兆円くれね~かな~」という願望があるでしょう。

 2つ目はこのままでよいという諦観です。
 これも、まあ、あるでしょう。良くなりたいと思っている人にも。
 死ぬのが親孝行だとか、お金を稼いでも使っちゃうとか、運動のご褒美にケーキとか、勉強する前の気分転換でゲームとか。変化を恐れる気持ちがあるのか、面倒臭がっているのか、習慣がないだけなのか、反対のことを習慣としているのか。理由はいろいろあるでしょう。「だれか5000兆円くれね~かな~」と思っても、5000兆円くれる人を探すことは、現実味がなく馬鹿らしくてしないでしょう。

 「よくありたい」「このままでよい」を合体させて、3つ目。

 このままで「よい」のだから、すでに「よく」なっている、という誤解です。
 こうなるともう手のつけようがありません。妄想・狂人の域に突入です。
 開いたドアを開けないのは、すでに開いているから。という誤解です。だから部屋から出ようとして、めちゃくちゃにぶつかります。開けてないドアにめちゃぶつかります。その痛みで、ドアが開いてない事実に気付けばいいのですが、すでに開いていると思い込んだら、もう開けることはできません。だって、すでに開いているはずですから。

 3つ目の誤解が育むものは、「よい自分」と「悪い自分」いう像です。金持ちの自分。賢い自分。魅力的な自分。それに呼応する貧しい自分。愚かな自分。不細工な自分。
 言い換えれば、優越感と劣等感。


 優越感と劣等感を持っているだけで、客観的イケメンはあらわるのか?
 僕にも、「自分ではイケメンとは思ってないけれど、人にイケメンだと言われる」という考えがあります。本当に。
 それに、「突然自分に好意を持ってる人があらわれないかな」とか「美人に誘われたらセックスするぞ」という気持ちも、まあある。
 優越感も劣等感もかなりあると、自負したくないけど自負しています。

 けれど、「だからイケメンのように扱われるべき」や「そのように扱われたい」ということにもなりません。僕が自覚しているのは、人の判断材料は見た目だけじゃないし、見た目もぜんぜん汚いし、愚かだし、金もないし、好かれるような立派な性格をしているわけでもありません。イケメンだって言われたのもほんの数人からですし、百人から言われてもそうは思えないような気がします。ってかイケメンってなんだよ。
「イケメンとは思わないが人からそう言われることがある」ってだけで「イケメンのように扱われたい」と思うのは、さすがに、「宝くじを買う金があるから六億円持っているのと同じ」くらいの無茶な飛躍があるように思えるんですが……。
 そう思うのだけど、いったい彼我の距離はどれくらいの距離なのでしょう?
 どれだけ離れていて、あと何歩でそこに至ってしまうのか。
 目に見えないほど遠くであっても、絶壁から見下ろす闇の底にあるなら一歩踏み出すだけで辿り着いてしまいます。

 それはちょっとかなりめちゃくちゃ怖いな、と。

 なんなんでしょうね。書く前にだいたい分かった気がして、書きながら整理されるかと思いましたが、結局分からないので、まだ考えてみます。


2017/9/5 火 恋人みたいなこと言うが

 世はまさに大SNS社会と言いますね(言わない)。
 ゆるいつながり(東浩紀発祥の言葉)がそこらじゅうにあって、友人の友人くらいなら何の話題にも上がらなくても名前くらい知ってしまうものです。
 それで、その名前しか知らない人間がなにか滅茶苦茶なこと言ってて滅多矢鱈気になります。
「この○○って子、誰よ!」って詰め寄りたくなります。友人自身も案外詳しくないかもしれませんが、ゆるいつながりなので、ほんのりとは知っているでしょう。

 最近気になっているのは、同じ苗字と思しき二人です。
 ひとりはハイテンションな女子高生、
 もう一人は統合失調症気味の二十歳以降の方。
 顔も名前も知りませんが、ふたりは、おんなじ苗字のようです。それくらい分かってしまうのがゆるいつながり社会のようです。それか違う苗字か。どっちかです。その適当な判断も、ゆるいつながりそのものです(たぶん)。
 実際に、僕がその人らに会うことはまずないだろうと思いますが、もし会ったとて気付くことはないかと思います。
 僕は最近、自己紹介などしない不届き者になってしまったし、自己紹介を行わせるほどの不心得者でもなくなってしまった。名前だけ知ってる人と、顔だけ知っている人がいて、顔すらも忘れて。おんなじ人なのに、知った人が倍になったかのようで、不思議のようにも悲しいことにも悪いことにも思えます。あるいは、なんとも思えないことが不思議にも悲しくも後味悪くもなります。

 ひるがえって自分も勝手に増殖しているのだろうと思うと、「私たちは増殖しているブルー!」のような気さえするので、ゆるいつながり社会に染まっちまった現代人なのだなあという実感が、あるのかないのかといった感じです。あ~、ゆるくつながるかもねー。ゆるいつながりのアメリカ人もそういうと思います。

 そういうゆるい感じなので、増殖した人のだれかと増殖したまま接する時間がしばらく続くのでしょう。
「世界に親切とかいうサイトから勝手に増殖した自分」というのが、いつかいたら嬉しいけれど、まあ、そこは希望として……。


2017/9/6 水 余韻

 物語の最後に、その冒険があった証が残る〆が好きです。

 たとえば。
 現実世界にいた子が、突如まったく夢な世界で冒険して帰ってくる。たいてい冒険するのは子供。
 冒険を経て、けっこうたくましくなっている。
 現実世界ではぜんぜん時間が経ってない、いつもの日常がある。
「おや、あれは夢の中だったろうか」と不思議に思いつつ、階段を降り、カメラが誰もいない部屋を映す。ベッドの枕元には、あの世界にあった石が朝日を浴びきらきらと輝いていた……。

 みたいな感じの。あの物語は本当にあったと証明するような、別世界から持ち帰ったなにかを持って帰るってのが、すごっく好きです。古今東西どこにでもあるように思えるのですが、ちょっと調べたくらいでは分かりませんでした。なにかしら大きな意味を持ってるでしょうに、まだ名付けられてないんでしょうか?
 別に、冒険の証に気付かないのは重要じゃないんです。冒険の証を抱いていつの間にやら時が過ぎ「ねーねーおばーちゃーん、あの話また聞かせてー」「ほっほっほ。むしろお前が聞かせろや今度はお前が行く番じゃい」って流れも、グッと来ますよ(家の外で妖精が飛んだり笑ったりするパターン)。

 冒険が本当にあった冒険は主人公を成長させたと、読者が確信できるから好きなのでしょうか?
 うーん。重要な要因ではあると思いますが、それだけじゃないような……。


 たとえば『竹取物語』。
 帝の兵士が不死の薬を火口へと捨て、その山は兵士の富んだ山――富士山と呼ばれるようになり、山からのぼる煙はいつまでも絶えない。というラストです。
 現在富士山の休眠中ですが、『竹取物語』の成立時には火山活動中だったのでしょうね。そうでなければ、『竹取物語』を読み終えた印象が全然違います。当時は富士の煙を見てあはれとか言ってたのでしょう。たぶん。(さすがに京都からは見えないか)
 『竹取物語』では、かぐや姫や帝や兵士が冒険したわけでわありませんし、別世界に冒険したわけでもありません。
 富士山という名前と絶えない煙が証したのは、『竹取物語』のような物語があった、ということです。
 本当にあった! あるいは、 あの話は本当にあったかもしれない。と思えるようで、好きです。


 『星の王子さま』も、王子が笑ったと思えば全部の星が笑い、泣いたと思えば全部の星が泣き、小さな星の美しいバラが枯れてしまえば全部の星から美しさが消えてしまうように感じる! ってところが証かなと思いましたが、あれは最後ではありませんでしたね。
(しかし、余韻を受けるのは読者にのみなんですよね。「○○は実在しまぁす!」とか言ってるjみたいな人には、全然ピンと来ようがないと思います)


 あ。
 『竹取物語』も『星の王子さま』も、証を示すのは「読者に向かって」なんですよね。
 僕のイメージする「冒険して最後に証が残るラスト」は、そうではない。

 冒険するのは子供。冒険の証を持つのも、冒険を胸に秘めたのも子供。
 読者は、それを垣間見て、勝手に感動して勝手に「本当にあった泣ける話!」と感極まっているに過ぎない、という印象があります。

 なるほど。
 整いました。
 ただ、「冒険はあった」、それだけでいい。
 余計な脚色は思い出を濁らせる、ということでしょう。

 それでいえば、jさん。
 園長先生の「無駄じゃなかったと思います」は、「冒険して証が残る話」として最高ですね?(答え合わせ)



※ちなみに僕は『竹取物語』も『星の王子さま』も好きです。


2017/9/7 木 隠し種

 同僚が廃棄をとっている図を記録しておきました。こいつは全然働かない↑腹立つので辞めてもらったほうが嬉しいです。
 「お前なんていつでも辞めさせられるんだぞ」と思うと失礼な振る舞いをされても多少精神衛生がよいです。

 けれど、これもまた当たり前ですが、「辞めさせられるんだぞ」と思っている間は彼は辞めていないんですよね。これもビュリダンのロバになっている。

「○○をしないうちから、○○をした気になって、安息を得ている」のは例の統合失調者に繋がる思考ですね。


2017/9/8 金 真実と事実(水形4)


 真実が事実を隠し、事実が真実を現す。

 まず、真実と事実の定義から。
 事実は本当にあったことです。ニュートンがりんごと羽根を落とした時にりんごが先に落ちたのは事実ですが、そこから導かれた「重いほど早く落ちる」は(現代人にとって)真実ではありません。
 真実は本人にとって本当にあったことで、事実であることもないこともあります。たとえばイエスがコルゴダで死んだのは事実ですが、イエスが復活したかは事実でないともあるとも言えません。


 「もう。本当にもてる男って厄介な存在だよね。最初に三省堂で晴彦さんと出合ったときから思ってたの。おとなしいけど、体ががっちりしてて、顔もハンサムだから、きっとおとなしい性格は作られたもので、本来なら女泣かせな男なんだろうな、って。そしたら童貞だって言うからさ」
   水形明月『僕の二つの恋』

 僕の「本来そうであったはずの人生」は、イケメンの僕が女を次々抱いていく、そういう人生だったはずだ。
 現実には、ただ自分が冴えない男だと錯覚していたのであり、長い年月が過ぎてしまった今では、時間を取り戻すことはできない。
   水形明月『青春の終わり』


 水形は、別な高校に通っていた自分を「真実の自分」「本当の自分」「本来の自分」だと思っているようです。
 正確には、「別な高校に通って女を次々抱いて何事も順風満帆の自分」ですが。
 この「真実」は、他の荒唐無稽なこと――「自分は神だ」「自分は8000歳だ」と較べて現実味のある話に思えます。
 実際、水形が別な高校に行っていれば今とは違っていたでしょう。おそらく良い方向に。

 しかし、この「別な高校に通って女を次々抱いて何事も順風満帆の自分」「真実の自分」だけは、絶対に「事実」ではありえないのです。神が水形である方が、まだありえるのです。

 「真実の自分」は、前提として、「事実の自分」を否定しています。
 「男子校に通わず共学の高校に通った自分」と「共学の高校に通わず男子校に通った自分」は、互いに否定しあっています。
 ですので「真実」が「事実」になることは出来ません。

 しかし、「事実」が「真実」になることは出来ます。
 その場合「事実」に反する「真実」には出来ません。

 「真実」がX、「事実」が仮に1だとして、
 X≠1ならば、Xにどんな数字を代入することが出来ます。0.9でも3でも8000でも5000兆でも成り立ちます。けれど1にだけはなりません。
 X=1ならば、Xには1になるものしか入りません。3や8000や5000兆では成り立ちません。

 水形は自分が1である事実を、心底認めたがってなく思えます。だから1にならないものをXに当てはめ続け、間違い続けたように思えます。
 X=1のままでは、Xは1です。
 真実という頭の中の左辺Xを弄るのではなく、事実である右辺1を変えなければ、Xは1以外のものにはなりません。
 事実の1からでなければ、Xに1以外を入れても、ただ間違うばかりです。

 本当なら唐辛子ウォツカのペルツォフカが好きなのだが、いつしかその味も好きではなくなっていた。
   水形明月『ウインドの思い出』

 かつて好きだったものが、今は好きではない。それだけの話なのに「本当なら」というから、今の自分を「本当」と言えなくなる。わからなくなる。


2017/9/10 日 虫を殺す仕事


 コンビニにはよく虫が入ってきます。夏は蝉がやっかいで、速いし飛ぶし煩いし小便かけるし、なにより迷惑なのが、自動ドアを単独で開けることです。センサーに引っかかるくらい大きいんですよね。深夜に自動ドアが勝手に開いたら、幽霊ではなく、猫か蝉です。
 他にもゴキブリとかハエとか便所虫とかカナブンとかあぶとかよく分からないけど硬い虫とか、いろいろいて、どれもちゃんと殺しています。

 蝉は、店内に客がいるときは捕まえて外へ。客がいない場合は潰しています。
 客がいるときに蝉を殺さない理由は2つあります。
 1つは、蝉の好感度の高さ。なんか、幼少期の思い出か、一週間しか生きられないという哀れっぽいイメージからか、蝉の好感度は高いです。バリ高です。虫怖いとか言ってる同僚も、自分が蝉殺しまくってることを言うと、可哀想と漏らしていました。
 2つ目は、生き物を殺すのは穢れとかいう認識です。蝉の鳴き声が急に止まると、死んだことが分かりますよね。それに、ぐしゃって音がしたら、明らかに殺してます。殺すとか。殺すとか悪じゃないですか。殺すとかめちゃ怖くありません? ここの店員は殺すってことを是としているんだな、虫を殺すってことは人も殺すんだなみたいなイメージを持たれそうなんですよね。日本人は全員仏教徒だから「よくもお母さんを!」みたいなこと言われかねません。

 そういうわけで、客がいる前だと、蝉は殺さないようにしています。外で殺します。
 忖度できていると思っていましたが、てんとう虫はかわいいから殺したら駄目らしいですね。人の心ないのみたいなこと言われました。人間と虫だけの関係、難しい。


2017/9/15 金 水形と宗教(水形5月)


 これからはあのいい店での安泰な勤務が続くんだ。もう悪魔のことは言うまい。そいつは無視しておくのが一番だ。
  『青春の終わり』

 悪魔だ。
 いつか僕を邪魔することで、包丁で指を切らせたこともあった。何かにつけて動作を失敗させるのだ。
  『青春の終わり』

 悪魔が引き起こす耳鳴りなどの苦痛を排除するため、レーベでアニメを見ないことに決めた。
  『スポンジ脳』

 僕は一神教の神に出会ったことがないのでクリスチャンのように祈ることはしないが、これでも以前はキリスト教式に祈っていたこともある。
  『スポンジ脳』

 僕は神との関係を考えました。何年か前にキリスト教と出会って、教えを捨てたり取り戻したりしてきました。でも、信じているといいことがあるので、信じることにしたのです。
  『タツオの旅路』


 答えを与えられると信じてしまうことがあります。いつもの場所にいつものものがないと泥棒が入ったとか、この水を飲んで健康になった気がしたからこの水は健康によいとか、祈ったあとに良いことがあったから神はいるとか。傍から見ると気のせい・偶然レベルに思えるのですが、まあ、人に迷惑をかけないならよいのではと思ってます。

 水形は自分の耳鳴りを悪魔のせい、幻聴の声は悪魔のささやきと思ってます。悪魔に憑かれると、困りますね。
 第一に、悪魔が憑いているのだから、という言い訳ができます。全部悪魔のせいにできますから。
 第二に、どうしようもなくなります。悪魔相手ですからね。他人の目に見えませんし、科学の力ではどうしようもありません。

 悪魔が憑いていると困りますが、悪魔だという確証はないので、悪魔が憑いているわけではないかもしれません。神もよく預言とかさせますよね。神だったら、いろいろ、なんか便宜してくれそうです。
 水形は自分に憑いているのが神だと思うこともあります。神に対して「神なのになんで僕の人生をよくしてくれないんだ」と怒っています。不敬極まりなくないですか?
 いいことがあればそれは神だーって、ヨブ記を読んでないのでしょうか。あれほど分かりやすく「神の意思は人間に計れない」と示したものはないでしょうに。

 また、神や悪魔ではなく、霊が憑いているのだと思うこともあります。
 分裂気質者にはよく高級霊が憑くそうで、そのせいで、世間から嫌われやすいそうです。でも、分裂気質者は上品なのです。上品だけど、世は悪に満ちているので、嫌われてしまいます。神秘的なこと、美しいこと、芸術的なことは、低級な低俗霊どもの世俗から反感を持たれるので、辛いようです。
 また高級霊同士でも噛み合わない(付き合えない)ことがあり、その場合は、年の差によるものです。自分の霊は1000歳ほど、相手の霊は若い高級霊なので、話が合わなかった、ということもあります。まるで、会話が通じないと「IQが20違うと話が通じないんだよね」と言って自分のIQを高さを確認する人のようです。

 神や霊が憑くのは、作家の職業病なので、水形は作家の素質があるとのことです。
 ぜひとも悪魔に負けず、悪魔と戦い続けて頑張って欲しいですね。


 女性と付き合おうとして、失敗し、それを悪魔や霊のせいにするのは面白いです。悪魔の声ばかり聞いていると、相手が人間だということを忘れてしまうのでしょうか? 相手には意識や心があって、それは自分と違うこと、自分とは違うことを、忘れてしまうのでしょうか?
 僕が水形悲恋話で一番好きなのは、「女性は初対面のときはにこやかだが、次第に冷たくなる。だから初対面のときに付き合ってと言おう」というものです。恐ろしいですよね。相手が冷たくするのは、冷たくされるようなことばかりしているからでしょう。そんなことはお構いなしです。自分に笑顔を向ければ自分のことが好きに違いないのです、だから好感度が高いうちに付き合ってと言うのがいいのです。彼の中では。
 初対面とはお互いの好感度が0のときなので、自分と話しても好感度をまったく覚えないと自白しているように感じるのですが。



 魔女狩りや関東大震災の朝鮮人狩り、蝦夷討伐やネイティブアメリカン殺しと同じで、機会があれば気に食わないものをみんな殺したいのです。
 気に食わないことは全部悪魔のせいにしてしまえばいいのです。
 悪魔を殺したものは、その悪魔の存在を証明する宗教にずっと縛られることになります。神を信仰する気持ちとは真逆の理由で、その宗教にすがります。その宗教が真実であればこそ、自分は人殺しにならずにすむからです。「人を悪魔と思い込み、人を殺した自分」を認めることは、できないのです。

 悪魔に人生を狂わされた水形は、「悪魔がいないにも関わらず最悪な自分の人生」を認めることはできないのでしょう。これからも不当を嘆くでしょうね。


2017/9/17 水形はベジタリアン志望(水形6)


 無為な生活を送っているので、水形の小説を読みまくって気が狂いそうな日々です。


「あまり肉は食べないんですよ。ニワトリさんや豚さんや牛さんのことを考えると、かわいそうで……」
「大谷さんは優しいんですね」
 男の看護師が言いました。
「でも魚やイカは食べるんでしょう? 中途半端じゃないの」
 僕は困って言い訳をしました。
「いや…… 魚介類に心があるのかどうかわからなくて」
  『タツオの旅路』

 料理は唐揚げが多かった。僕もそれをすすめられたが、牛や豚に比べて鳥族に対する僕の親しみが強いので、断りきれなかったけれど、鶏肉を食べるのは嫌だった。何年か前に僕の中で肉を食べるのは罪だという考えが生まれた。今でもそれは同じである。でも、実際にはおいしくて食べてしまうことが多い。中途半端だ。
 牛肉を食べる頻度が一番高く、次いで豚肉、鶏肉の順に食べる頻度が少ない。まあ、これだけ食べる機会が多いなら、動物のことを思っているとはいえないだろう。
  『僕の二つの恋』
 
 僕は迷った末、かき揚げ丼を選んだ。本当はカツ丼が食べたかったのだが、豚の命のことを考えてカツ丼はあきらめた。
   『スポンジ脳』

 殺さないほうが優しいから食べないのでしょうかね。引用できなかったのですが、水形のどれかの作品に、「僕が牛丼を食べないことで牛さん一頭が生きていられる」とありました。自分が食べても食べなくても、今死んでいる分は死んでいると思うのですが。
 僕が好きな「豚の実」が登場するのは、『ミスラの夢』です。ミスラという理想郷があって、そこには殺生や悪意や病がありません。だからみなベジタリアンです。
 しかし水形は、ベジタリアンになりたい気持ちより、豚も牛も魚も食べたい気持ちが強いんですよね。
 だからそこには、「豚の実」や「牛の実」が生えている。豚の木に実る「豚の実」は、豚肉の味がします。けれど木なので、これを食べてもベジタリアンです。
 タブーを回避しつつ(悪を為さず)、快楽は得たい。その気持ちが透けて見えるようで、「安易だなあ」と思い、僕はとても好きです。
 豚の実、牛の実、鯖の実や、ソーダの実もあります。さすが、理想郷なだけありますね。


2017/9/18 東郷潤

 最近は水形の人格批判めいたことばかりしていますが、自分を省みると、同じような性質を持っているように思えて仕方ないです。
 保留すること(選択をしないこと)。意思がないこと(受動的なこと)。楽観すること(100%否定できないのならそうなるかもしれないと思うこと)。自己評価が高かったり低かったりすること(低いくせに高く置くこと)。働きたくないこと。小説を書くこと(才能に期待すること)。
 経歴で言えば、キリスト教の前科があることと、大学を中退したこと。
 処女厨、菜食志望、三階建の家に憧れるなどは違いますが、なんだか似ているところばかりが目についてしまいます。

 今、僕が水形と決定的に違うと確信できるのが、善悪についてです。水形の言う「悪魔に憑かれている、悪魔と戦う、神に見守られている、祈る」というのは、宗教的なことではなく、善と悪があって「悪は悪い、自分は善」という気持ちの発露に見えます。
 僕は、善悪に囚われないように警戒しています。水形は「世の中に悪が蔓延っている(だから善性を持つ自分は辛い)」と言いますが、僕は違います。

「世の中に善悪中毒が蔓延っている(だから世の中は辛い)」

 です。
 善悪中毒という言葉は、僕の言葉ではありません。僕が私淑している東郷潤の言葉です。

 東郷さんは啓蒙家で、その内容はつまるところ、「善と悪に分ける行為が様々な酷いことを引き起こしている」ということです。これだけの話が、中身をひとつひとつ見ていくと、非常に大きく重いです。小学生でも分かるようなわかりやすい絵で話で、百数十の絵本を描いてネット上にアップしています。その活動は十何年ほどでしょうか。本当に偉大です。
 善悪中毒についてはその名もズバリな「善悪中毒」に詳しいですが、絵本から読むのがいいかもしれません。
 オススメなのものをいくつか挙げます。

 善(だと自認するもの)は悪(だと信じるもの)を無限に攻撃する「攻撃命令、無制限!

 善のため、あらゆる悪と戦う意思が世界中をぶち壊す「どっちだ?

 悪のイメージ、善のイメージを植え付ける言葉を喝破する「二重に隠れて

 だれにでも絶対に真実でしかありえないものも挙げておきます「三次元だよ」「見えない危険」「リンゴ異文化騒動記

 どれも本当にその通りとしか思えないことしか書かれていません。僕には本当にその通りとしか思えません。
 もちろんこれらのこともを一笑にふしたり、思い込みだという人もいるでしょう。けれど。けれど僕は、東郷潤さんが示したこと、蒙いた認識を閉じることはないでしょう。これはもう、絶対に。なんで「絶対に」なんて言えるかは、正直なところ、分かりません。
 そうとしか思えない、
 としか。今はあらわせない。

 なんででしょうかね?
 ぜひ、上記のリンク先へ飛んで、読んでみて下さい。答えは君の目で確かめよう!


2017/9/27 スポンジ脳(水形7)

 また統合失調症者の小説についてつらつら書きます。
 今回は『スポンジ脳』という作品について。現在は公開されていないのですが、あらかじめちゃんとバックアップをとってあるので無問題です。


 あらすじ。

 統合失調症(作中では「スポンジ脳症」)の主人公が異星に行き、その星で「統合失調症は平和のよすが」と評価され広まり、地球にも統合失調症が広まり、みなが統合失調症になって平和な世界になった。

 という話です。

 この世界で評価されてないのだから、評価軸の違う場所に行けば評価されうる。
 この世界は愚かで世俗的なのだから、賢く超然的な世界になれば評価されうる。
 そういった感情が見えますね。

 現在公開されている『青春の終わり』と類似した点をあげると、主人公が悪魔につかれていることでしょうか。どれだけ幸せになっても悪魔はついて回るようです。


 この作品は面白い点がいくつもあります。ひとつは、女性がめちゃくちゃ主人公に同情的なことです。
 主人公が喫茶店で悲しみに耽っていると、女子高生(実は異星人)が、書き置きをするんですよ。
「泣いてらしたようだから、かわいそうだと思ってこれを書きました。いま付き合っている女性はいますか? いなければ私と付き合って下さい」
 こんなこと、ありえますかね?
 ありえないとは言いませんが、ありえないと思うしか無いことですよ。あり得たとて、裏を考えずにはいられませんよ。宗教勧誘とか、高価な壺をかわされるとか。
 で、この書き置きを受けて、主人公が真っ先に思ったことが、これ。
(今年こそは、僕にも楽しい夏がやって来る?)
 いやいやいや。受け入れるの早すぎでしょ。どんだけお前は、どんだけお前は、この書き置きが常識に外にあるのか、ほんとに分からないのか。分からないんでしょうね。分からないから、別に裏もありません。この女の子は本当に、喫茶店で勝手に暗い顔して泣いていた男と付き合いたがってるし、付き合うし、数時間後に「結婚しない?」と提案します。結婚詐欺とか、結婚は冗談だとか、そんなこともなく結婚します。
 どんだけ主人公が魅力的なのか、なにも書かれていないので分かりませんが、文字にも書けない美しさを持つのでしょうと想像するほかありません。


2017/9/24 もし43歳統合失調処女厨が小沢健二の『流動体について』の歌詞を書いたら

 葛西臨海公園 海の波が揺れる
 5時になることが告げられると
 甘美な曲が流れ
 僕はしばし寂しさに頬を濡らす

 もしも共学の高校に通うことが出来たのなら?
 本当の世界の僕は
 バルコニー付き三階建で暮らしてるのかな
 広げた脳みその妄想を隅まで見てみるけど

 神の手の中にあるのなら
 その時々に出来ることは
 ないー(急にムラタユスラになって終わり)


2017/10/1 Amikaさんのライブに行きました

 いやー、すごかった。生きてるし動いてるし歌うし可愛くて畏れるほど力強かった。
 ライブだからって曲のアレンジがあるわけではなく、伴奏は(テンションがあがってるけれど)アルバム収録版と大きな違いはないように聞こえました。曲のテンポも、たぶんほとんど同じ。
 違うのは、悲しみは悲しみが、怒りは怒りが入魂されていたところ。

 CDの歌声は、これまでそんなことを思いもしなかったのに、なぜだか平坦に聞こえるんですよね。本当に、これまではそんなこと露にも思いませんでした。ありえない、平坦なわけないのに。
 そして「あ~これからはCD聞けないな~」なんてことはまったくなく。生きてるAmikaさんを見たので。僕の記憶のAmikaさんは今でも笑うので、彼女に歌ってもらえばいいんですよ。
 これはもののたとえですが、聖書や教会の話を聞いて神を知っている人がついに神の存在を確信して宗教画を見た時、絵ではなく神を想起する感じです。

 「12月なのに暖かい日」がどれほど幸せなのか、歌い方ひとつで勝手にわかりました。


2017/10/7 歌詞の誤解など

 Amika『ナンを食べに行く

 あるカレーの店を「混み過ぎたら僕たちが困るから誰にも教えない」と恋人が言ってたのに教えてやがる大ショックという歌なのですが、この恋人、別れた恋人が今カノ連れていて遠目で気付いて大ショックという歌かと思ってました。けれどむしろ、自分と交際中であるはずの恋人が女連れてるカレー屋に来てた、と捉えるが妥当に思えます。「夜はいつも彼女と来てる」という言葉を(おそらく)盗み聞きするのですが、今カノ相手には「彼女と来てる」とは言いませんよね。いや、言うか。取り消し。
 でも、まあ、恋人の友達に嫉妬する気持ちもあるでしょうし、そこが大事な場所ならなおさら。彼ぴは「異性の友達がいたらあかんのか」「そげな大事じゃあらんどろん」と弁解するでしょうけど、「ゴムつけたから浮気じゃないよ」「身体は裏切ったけど心は裏切ってないよ」って言われてるようで腹立ちますね(立つんだろうなあ…)。


 Amika『自転車』

 「そんな言い方しなくても分かるのに」っつって飛び出して、その言った言葉について「あんな言い返し方しか出来なくて」って自己を顧みてるんですね。地下の店から飛び出して、自己認識して、戻らなきゃって引き返してる。行って帰ってくる物語や。


 Amika「ラストディ」

 縁が切れたり死別したり、人間、別れは訪れます。どちらにもとれるような曲だと思っていました。けれど、1番は縁が切れたときの別れ、2番が死の別れと、きっぱり分かれてるんですね。なんで混同してたのかなと思うほど。
 ありがとうってハグをしたら暖かなあたしを残せるでしょう、って、「これから冷たくなるよ~」ってことだよなあ(しみじみ)。


2017/10/11 理解

 僕のブックマークフォルダには「定期」というのがあって、定期的に見るサイトが並んでいます。詳しくは書きませんが、あるサイトで「昔のことばかり思い出す」と書かれ、別のあるサイトで「懐古奴~!いま素敵なことひとつもないのだろうお前という存在及びお前の周辺環境~~!!早く人の子になれるよう努力したほうがいいんじゃないの笑」と読める文章が書かれており、また人を馬鹿にしてるのかな?と想像しましたが、勝手な想像です。その二つのサイトのブックマークが並んでいるせいであって、別に本人らは、だだっ広い海と空と静かな住宅街で誰にも知られずに生きて死ねばいいよとは思っていないでしょう。

 さて。
 人が誤読する理由は誤解するからです。
 読めなければ理解もできませんし、理解できないことが明白ですね。理解できないことが明白でないときは、理解していると誤解しやすいですね。
 赤と青は違う色だと認識しやすいです。赤と赤じゃない色なら、取り違えることもあるでしょう。赤とは違う色だから取り違えないと言っても、朱色とか紅色なら取り違えることもあるでしょう。もし自分を色盲だと思っているなら、間違えているかもしれないと思うこともあるでしょう。自分は色を間違えることがある、と思っているので。
 誤解をする理由は、解することができると思っているからでしょうね。サッカーでよく負けるのは、決定力不足とかあいまいな理由ではなく、サッカーをしているからとも言えます。


 AさんはXのことをYと思うのに、BさんはXのことをZと思うことがあります。それはXがYに見えやすいとか一般にはZと言われているとか、そういうことではなく、AさんとBさんが違う見方をしているってことです。
 ある一つのことを二つ以上の見方ができる場合があります。

 小さい頃に読んだ本を、大人になって読むと違う感想を持つ、ということはよくありそうです。
 いま読み終えた本をすぐ最初から読んで違う感想を持つ、ということもよくありそうです。
 小さい頃に読んだ本を、大人になって読んで同じ感想を持った場合、時間が経ってないとは言いません。
 いま読み終えた本をすぐ最初から読んで同じ感想を持った場合、一度しか読んでないとは言いません。

 ニュートン力学が間違っていても役立つことは大いにあるし。


2017/10/15 ミッションボトル「熟成」

 「発酵」だったかな? P-model好きだから「培養」でもよかったかも。


 湯島の夜学バーbratには、「ミッションをこなすと安くあるいは無料で酒が飲める」という制度があります。それがミッションボトル。
 ミッションをひとつこしらえてきました。そのミッションの内容は、ちょっと変なことです。

 僕はバーに行くときに「今日は○○の話をしたい」と思うことが多いです。最近見た映画とか本とか、最近考えてることとか思いついたこととか。何かの成功や失敗があって、その話をしたいとか。誰々がTwitterでこう言ってたけどどうとか。最近の○○さんがヤバイけど殺さなくていいのとか。そーゆーよーなこと。
 そのようなことを、思いついた途端に自分の内から出してしまうのは、もったいないんではないかと。もっと熟成させて、考えてもいいんではないかと思って。
 だから「熟成」のミッションは、「言おうと思ったことを言わないでいるとウィスキー無料」です。できればその考えたことは、ツイッターにも書かないでほしいですね。
 いつでも頭ン中にとどめていて欲しい。
 忘れようと思い続けるみたいに、考えを考え続けて欲しい。
 んで、次バーに来たときに「前来た時これ言おうとしてたんですよ~」と打ち明けてもらう。あるいはもう解決したのでいい、とか、後日談的に。熟成期間を置いたために、考えが深まれば、嬉しい。

 そういうミッションをいまやってるので、ぜひ、bratに行った時にはよろしくお願いします。


2017/10/18 最近はスピッツ『醒めない』ばかり聴いてる

 「ナサケモノ」という曲にこんな歌詞があるんですよ。「憧れたりコケにしたり愛おしい二文字 君の名前つけた人はすごくセンスがいい」って。
 この、愛おしい二文字。「花」も「花子」も「花花子」、二文字っちゃ二文字なんですよ。
「愛おしい読みは二文字」とか、
「愛おしい漢字で書いたら二文字」とか、
「愛おしい使われている漢字が二文字」とか、
 厳密に言え!
 幅広くしてる。不当に幅広くしてる。せこい。インチキ。こんなん加計学園と同じくらいの疑獄ですよ。許せますか?
 草野マサムネ! 証人喚問に応じろ! 卑怯な真似をするな!!!1


2017/10/25 『本好きの下剋上』について

 本好きの下剋上とは、小説家になろうに掲載されている小説です。なんと全文文字数は五六〇万文字超!
 文字数が膨大ですが、完結しているので、そこは安心です。(小説家になろうには、もっと長い文字数で、まだまだ終りが見えない作品がいくつもあります。ヤバイ魔境です)
 タイトルが少しとっつきにくい、というか、どういう話なのかよく分からないですが、読んでみると、なるほどこれしかないというもの。

 主人公は本が大好きな大学生で、地震の際に本に埋もれて死んでしまう。目覚めるとまったく知らない世界の、病弱な子供に生まれ変わっていた! その不自由な身体で、その世界で、大好きな本を作るために奮闘するというお話。
 テーマがあるとするなら、それは、身分差でしょう。『下剋上』が示す通りに、その世界には身分差があります。一章の中でも、農民・商人・神官・貴族とさまざまなキャラクタが登場し、身分差による折衝と、それを乗り越え、あるいは耐え、あるいはやり過ごしていく過程があります。特に一章の終わりとか、もう、涙なしには語ろうと思えば語れない展開です。

 そういうテーマなんてのは二の次で、キャラクタですよ。
 主人公の本好きというのが、もう度を越していて、何かを好きな人ってこんなに凄いんだ、という感じになります。
 僕はオタク(というかマニア)を尊敬しているのですが、それは、自分に「熱狂的に好きなもの」がないからなんですよね。生きていられるだけの熱がない、というか。
 まあ、そのようなことは四の次で。面白いし、たぶん、教育にもいいです。


2017/10/30 雪が降る

 最近めっきり寒くなってきました。
 沖縄では「白い息」という言葉があります。沖縄が日本の首都なら、広辞苑にも載っているでしょう。意味は、寒くなると、息が白くなる、あれことです。沖縄ではわざわざ白い息とよんでいるんですよね。冬の一番寒い時期に、よーやく息が白くなったり、ならなかったりするんですよね。
「さむーい」
「白い息でるよ」
「はー……(角度を変えて優しく)はー……出ないやん!」
「嘘ぴょーんばーかばーか」
「こらー待てー」
 みたいな会話が沖縄のあちこちで行われるはずです、もう少し経つと。

 あと、もう少し経つと、子供の国のCMが流れるはずです。動物園と遊園地が混ざったような場所……だったかな? 行ったことないのですが、CMでよく見ました。「沖縄に雪が降る!」とかいう。実際は雪でもなんでもなくて、上下逆にした壊れたカキ氷機が、そこら中に氷を撒き散らすらしいです。
 沖縄に本物の雹が降ったことが、かつてあったらしいですね。七〇年前だったかな?
 僕は「太陽の活動が弱まる時期があり、地球に宇宙線が多く入り、多くの場所でオーロラが見えるようになり、雲ができやすくなり、地球全体がやや寒くなる」という話を信じているので、そろそろ、沖縄にも雹くらい降らないかなと思っています。いつまでもかき氷を雪だと思うのは、なんだか、なんだかなあという気がするので。

 僕は雪が好きです。今年も雪が降ると嬉しいですね。
 今年は台風が過ぎてから、季節がすっかり冬な気がするのですが、まだまだ秋でしょうね。小さい秋は吹っ飛んで行って、ちかごろ空が近い秋です。寒いから空気が縮こまってるんでしょうね。
 雪はいつでも降って欲しいです。夏でも、雪が降ると、いい感じの清涼になるでしょうし。自然のことをなにも考えてない人の言い分ですが。でも、できれば、降るならば真夜中に。


2017/10/31 終わりかけた春

 

 彼女はあれから時間泥棒に時間を預けて眠ってしまった体を捨てて生きていく箱の中にその殻を残して
 夏のあと秋が過ぎて冬になっても終わりかけた春に同じ日がやってくる
 桜の木は緑の葉を蓄えて枯れることなく光合成を続ける

 どんなに沈んだあたしでも息をすることに疲れてはいない
 触れようとすることをやめられない
 なくすものさえまだなにもない

 彼女はあれから時間泥棒にあたしたちを預けて眠ってしまった体を捨てて生きていく石の下に白い殻を残して
 いくら年が過ぎてさびしさが薄れても終わりかけた春に同じ日がやってくる
 割り切れない思いを切り捨てるのは強さなのか弱さなのかわからない

 どんなに落ち込んだあたしにものぼるべき階段ならすぐここにある
 潰す時間も何一つ無駄にならない
 あとはこの足を前に出すだけ

 彼女はあれから時間泥棒に時間を預けて眠ってしまった体を捨てて生きていくあたしたちの中に流れて
(Amika/終わりかけた春)

 文字にすると理解がはかどりますね。耳コピなので、間違っているかもしれません。
 「体を捨てて生きていく」がどこにかかっているのかが気になって改めたのですが、まあ「彼女」でしょう。

 人の中にある他者たち。
 彼らが困っているんじゃないかと思って。
 彼らの歌かと思ったのですが、ちょっと穿ちすぎでしたね。その見方も、捨てるには僕には惜しいですが。

 もしAmikaさんの歌詞精読会をするなら、抱き合わせの曲は、本命『How can I say』対抗馬『ラストデイ』次点『90%』かな……。

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